スポーツが人間の徳性を涵養するというのは誤りである。 | ouroboros-34のブログ

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こころに映りゆく由無しごとを其処は可となく書き付けて
ごうなっだのでありますぐるらめ。

  スポーツが人間の徳性を涵養するというのは真っ赤な嘘である。

むしろスポーツは人間を狡猾にする。
人の心の動きを読んでその裏をかく方法に練達することを目的としているからである。
テニス、サッカー、バレーボール、レスリング・・・あらゆる競技が相手の隙を狙いフェイントをかける。
「ファインプレイ」というのは相手の狙いを察知してうまくはずしたときに褒めるコトバであって相手側にすればホームラン性の飛球を捕りやがったあん畜生、ということになる。
ひとことで言えば騙しあいの巧妙さを比べるのがスポーツである。

対戦競技だけではない。

独りで行う演技でも同じことである。
自分の美技の成功をうれしがる反面には他の演技者が失敗すれば喜ぶ内なる心があるのを否定できなかろう。

かくスポーツは卑劣なる根性を育成する。

よくスポーツは武士道に比される。

あたかも武士道がスポーツの精神上のバックボーンであるかのごとくである。

いまの剣術なら似たようなものであるから或いはそうかも知れない。やたらに大声をだして威嚇し、体力を誇示して押し倒し、一本じゃ一本じゃと戦果の押し売り小走り抜けをする。見苦しい限りである。

本来の武士道とはなんぞや。

武士道は死ぬことと見つけたり。

佐賀の《葉隠れ》だが、白襷の特攻でも切腹でもない。散華の桜の潔さ。へっ、そんなものは戦死を美化するために後からつけた誑かしのタワゴトなので騙されてはいけない。

武士道とは死ぬことと見つけたり。武士道の本質は死ぬことそのことなのだというているのだぞ。

死は人間の最大の敗北である。

面をとられても投げとばされても負け、また、博打で三十万円すっても負けは負けだが、なんといってもどうしようもなく、例えようもなく最大の負けは「死ぬこと」だ。

しかも人間は必ず死ぬ。つまり人間は必ず負けるのだ。

人間は最終的に敗北に帰着する。

《葉隠れ》は敗北についての研究論文なのだ。

真正の武士はどう戦うべきなのか。

正々堂々と真正面から剣を真っ向に振り下ろす。戦法はそれだけとする。

勿論こちらが殺られる。それでいいのだ。それでいいのだよ。

この潔さが武士道だから。汝の敵を愛することだから。
武士道が相手を畏敬することという視点にたっても、本気で負けなければその畏敬は見せかけの偽りの畏敬にしかなるまい。

投げる球は直球だけ。
変化球なんてサムライがやることではない。打つのはホームラン。バントなんて姑息なことはやらぬ。
パソコンでデータ分析で?現代野球は科学的に勝つ?そんな野球はくそくらえ。

殆ど負けが約束されたようなもんだが武士道は直球で勝負する。直球だけ。
そして先に述べたようにかならず負ける。

まぐれで勝つことがあっても、どうせかならず負けの日がくる。ボクシングだって歳とってスタミナが失せ、終りは敗北で闘争人生は閉じる。

正攻法でも勝つ場合がないわけではない。

じゃ、勝ったときの武士の心得は?

おごらない。ガッツポーズなどとんでもない。負けた相手の気持ちをおもいやるのが武士の情けである。
常に謙虚に、である。最後は例外なく敗北に打ち萎れる身分なのだから。

一切見せかけの誇示なく、相手を修行の同行者――むしろ自分を誇り高い武士として盛り立ててくださる有難い共演者として接遇する、
いわば、薩摩の示現流がまさにこの思想である。
示現流の基本は相手にまずわが身を切らせるのであることはご存知かな?
隙だらけの戦法であることをご存知かな?
相手より一歩遅れて死ぬのを勝ちとする流儀であることはご存知かな?

「四球で敬遠」できない野球なんて面白くないという毒がスポーツ界総身に回っているなら、八百長試合がアンフェアなど口にしないほうがフェアだと思うがね。おわかりのとおり、「敬遠」は反則でない公然八百長ってことさ。

いまのスポーツは腐りきっている。
ランニングシューズを改良して記録がでたってなにほどのことがあろう。
ドーピングはバレないように人知を尽くしついに「遺伝子ドーピング」に至る。
騙しのテクニックには限りがない。

資本主義社会にあっては片や興行成績、片や報奨金とPR出演効果、表の裏でお一人様百万円の料理が運ばれているとき、裏の裏では選手には大量の札束が飛びかう。

高校野球は就職活動、つまりコレデメシヲ喰ウことしか考えていない。「プロ野球」はほんのこのあいだまで「職業野球」と称していた。
今日だって「企業スポーツ」というコトバがあるそうじゃないか。物書きにスポーツライターってのもあるんだってね。

スポーツは勝つことだけ、武士道は負けることだけにあり、彼我の目的には雲泥の差がある。
サムライジャパンなんて盗人たけだけしい。

スポーツは人間の闘争本能をゲームの形に工夫することによって本性の醜さを糊塗し、ひいては、狡猾さを助長し商業主義から一歩も出ない非生産的な遊興の一種である。
この一項をピアスの辞典に加えたいよ、まったく。

追記

小学校の鉄棒で逆上がりができなかった積年の〈体育〉への恨みをここで晴らそうとした、とキミ思い給うな。
徒歩競走でシンガリを守り通し、いままた仲良し幼稚園の運動会で孫と手をつないで走り最後尾を務めて孫のヒンシュクをかった、昨今のツラミをここで紛らそうとした、とキミ思い給うな。
そろそろ大噴火を起こしそうだとすべての専門家が予想する富士火山帯の真上でオリンピックやるつもりのノーテンキがベソをかく日も近いとわくわくしながら待っている、とキミ思い給うな。

――然るべくして然るを述べたままであるからして。