転機のきっかけは、在来種のお茶。 | 桜野園 お茶で一福、心ふぅわり

桜野園 お茶で一福、心ふぅわり

水俣で、無農薬や自然栽培の緑茶、紅茶、ほうじ茶を家族でつくっています。
そんなお茶づくりと、日々の徒然。
ちゃみさんのあげまん道から学び実践から生まれる気づきも満載でお届けします。


必死で、我が家のお茶を商品化し、
わずかながらも、お取引先を増やしていた数年間。

その転機となったのが、2006年の4月でした。

夫が懇意にしていただていた、
「食の学校」の代表から
朝日新聞に、むかし茶の記事を掲載してもよいだろうか、
と連絡がありました。

それまでも、数回
雑誌等に掲載していただきましたが、
お客様の問い合わせも少なかったし
気楽な気持ち、
そしてお客様に少しでも知っていただけたらという必死な気持ちで
快諾しました。


それが、新聞に掲載された朝。

6時頃から電話が鳴り始め、
次第にひっきりなしとなり、
普通電話と、キャッチを転送した携帯電話の2台で、
夫と二人、一日中電話対応。



ファックスもどんどん流れてくるけれど、

1枚1枚を切っている暇がないくらい。

早朝から深夜まで、毎日必死でした。

夫の兄弟や、親戚のおばちゃんにも、応援を頼みました。

そのころ、まだ納品書や送り状は手書きだったし、
おまけに振替用紙の印字代、1枚につき2円も節約するため
手で書いていたので、
ボールペンが、数日で4~5本なくなるほど。

我が家のお茶は、
家族経営なので、量も知れており、
あっという間に在庫がなくなりました。

そのうちお茶摘みが始まり、
家族がみんな、お茶園に繰り出す中、
私は一人、受注、発送、箱詰め等々していました。


二番茶の紅茶製造が終わる頃、
やっと状況は落ち着いてきましたが、
2人目を妊娠していた私は、
お医者さんに「これじゃあ、臨月まで持たないよ」と言われました。

今考えると、本当に自覚が足りなかったのですが、
お腹は常に張った状態でした。

そんな中、
長女の遠足のお弁当を作り終えた直後に、
私は倒れてしまい、働きすぎを改めなければと思います。


そんな風に、
産むまで仕事、
子育ての合間に仕事、ではなく
仕事の合間に、何とか子育て。

3人ともそんな有様でしたが、
一番ゆとりのあった長女の頃に、
料理から、
洗濯の畳み方、
アイロンのかけ方、
日々の暮らしのいろんなことを、
なるべく自分でできるように教えてきたので、
2人目、3人目は長女が、弟たちに教えてくれるようになりました。


ほんなこ(本当に)、色々あったなあ~。

支えてくれた家族、親せき、そしてお客様の
おかげさまです。

今でも、その当時からお茶を購入してくださるお客様。
お1人お1人が、大切な大切な存在です。

そして、ご先祖の皆様が、種から大事に育ててくれた在来種のお茶。
それが、私たちを助けてくれました。
心にいつもある、先人たちのこと。
これからのこと。
感謝の心で、つむいでいきます。