町人に官位:岸豊後守積保 | のめしこき日記

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 金蔵寺を目指してサイクリングしていると、この解説板が目に入りました、

 宮大工の棟梁に官位が贈られている。

 

 

善梁院心挩常〇居士

宝篋印塔

壽昌院報屋〇珠大姉

 基壇の3面には漢文で顕彰文が刻まれています。撰文は渋川郷学の祖、吉田芝渓。

 

宝篋印塔について

 豊後守の墓塔は笠部に隅飾や露盤(笠部の段々)が無く、相輪(九輪)も宝珠に変わっていますが、基壇に宝篋印塔と入っていますから異型宝篋印塔といってよいものでしょう。

 宮大工の棟梁岸豊前守積保とその奥さんの墓です。

 儒学者が撰文して儒墓の雰囲気がありますが、典型的な戒名が彫られた仏式墓です。江戸後期とはいえ寺請制度で全員どこかの寺に属さなければなりませんでしたから。

 

官位「豊後守」について

 この墓で興味深いのは冒頭で記した事で、職人に官位が許されている事です。江戸時代の武家官位では「豊後守」だから豊後の国主という実体はなく、単なる呼称です。ただし、江戸幕府が審査して朝廷へ官位を名乗らせる許可を求めるようになっていました。「○○守」は基本的には大名・上級旗本クラスの呼称として使われたようです。

 

 のめしこきが引っかかったのは、町人が官位をもらえるものなのか? という事です。

 

 調べてみると、宮大工棟梁としては甲良家が豊後守を名乗っていたようです。初代甲良宗広は京都吉田神社造営により豊後守を許され、作事方奉行の下で作事方大棟梁として日光東照宮や芝増上寺台徳院霊廟、上野寛永寺五重塔などを作っています。相良家は大名家と同じく幕府内に組み込まれ、有力な仕事をこなしていますから甲良豊後守宗弘も理解できます。

 岸豊後守積保は妙義神社総門と本憧院本堂、双林寺鐘楼、岸豊後守盛次が双林寺宝蔵を作っていますから、群馬県では大変大きな仕事をした宮大工家であることは間違いありません。ただし、甲良豊後守家のように幕府内に組み込まれていた訳では無いようです。

 

まとめ

 岸豊後守積保の官位豊後守が江戸幕府を通して朝廷より許された正式武家官位かどうかは調べられませんでした。しかし、渋川市指定文化財ですし、「群馬県指定文化財の指定について」の中にも双林寺鐘楼豊後守積保、宝蔵を豊後守盛次が作ったと記されているので、根拠はあるのでしょう。

 解説板に「京都の卜部氏(※)に学び、豊後守を授けられ」とあるので、武家官位とは別物があるのかも知れませんが、調べられませんでした。

 

※ 京都の卜部氏・・・吉田神社の吉田家の事と思います。