九州定年旅行で巡った石造物です。
中尾五輪塔(大分県臼杵市)は紀年銘がある五輪塔では中尊寺釈尊院の五輪塔(1169年・仁安4年)に次いで2番目(1170年・嘉応2年(1172年・承安2年))・3番目に古いもので、国指定重要文化財です。ここで「日本で」という言葉をいれなかったのは、五輪塔は外国には無いからです。
臼杵摩崖仏からすぐそば(130m山道を登る)にあります。
明暗差が激しくて、のめしこきの腕では対応できません。
左の大きい方が嘉応塔(1170年)、右の小さい方が承安塔(1172年)。鎌倉幕府が1185年(のめしこきは1192年と習いましたが、定説が変わりました)ですから、平清盛の頃、平安時代末期です。
当時この地(臼杵荘)は藤原摂関家の一流九条家が所有し、臼杵摩崖仏を造り、天台宗満月(まんがつ)寺を開きました。鎌倉時代になると九条家から在地領主(武士)に荘園の主は変わりましたが、摩崖仏は彫り続けられました。
この五輪塔は摩崖仏が彫り始められた頃造立されました。
嘉永塔:阿蘇溶結凝灰岩の塊から掘り出された一石五輪塔です。
地輪北面に「嘉応弐年 歳次 庚虎」「七月二十三日」と彫られています。
この塔は昔は聖塔と呼ばれていたようです。
承安塔(1172年):こちらも一石五輪塔です。水輪に割れた跡があります。
地輪北面に「千部如法経(※)願主遍照金剛」「承安二年歳次壬辰八月十五日日次辛亥」。
平安な世が訪れることを願い法華経千部写経をこの五輪塔の地下か付近の収蔵庫に収めたようです。
中尾五輪塔・臼杵摩崖仏・満月寺の位置関係は以下のようになります。臼杵石仏公園の一帯は当時は浄土庭園があったようです。
のめしこきの暴論
摩崖仏より上から満月寺と浄土庭園を眺められる場所に、満月寺住職の墓(嘉応塔)を建て、故人を供養するために千部写経した如法経(※)を承安塔(か付近の収蔵庫)に収めたという事なのかと考えました。法華経は天台宗の根本経典だそうです。
※ 如法経とは、如法に経を書写するの意で、法華経又は法華三部経等の経を書写供養し、これを名山或は墓辺等に埋置する行事をいう(若狭小浜のデジタル文化財)。