鵜戸神宮の墓は興味深かった② 鵜戸神宮宮司の墓 | のめしこき日記

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 江戸時代までは神仏習合で、神社は別当寺(神宮寺・神護寺などとも)に従属していました。鵜戸神宮も例に漏れず、鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺の別当の傘下にありました。

 1868年(明治元年)に神仏分離令が出ると鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺は破却されました。

 

 鵜戸神宮宮司の墓(初代~8代)が別当の墓と同じ墓域に建てられています。

 初代宮司新納美庫大人之碑。鹿児島県の貴族で、1874年(明治7年)新政府より鵜戸神宮の宮司を命じられ1885年(明治18年)没。

 

 2代宮司伊東祐帰大人之碑。飫肥藩主。子爵。1894年(明治27年)没。

 

 3代宮司従五位高橋宇太郎大人之碑。1909年(明治42年)没。向かって左面・背面・右面の順に碑文が彫られています。

 4代宮司従四位薫六等伊東畯次郎大人之碑。1909年(明治42年)没。

 江戸時代末に離壇運動がおこり京都・吉田神社の免状がある神官のみ神式墓が許されはしたものの、一般には鵜戸神宮に限らず江戸時代末までは神社の神官は仏式墓に葬られていました。

 

 神仏分離令(1868年、明治元年)による廃仏毀釈運動により特に九州で激しく、大名墓所のある有力寺院であっても昌福寺(薩摩藩島津家墓所)や泰勝寺(熊本藩細川家墓所)などが破却され、今は跡地に大名墓所が残っています。

 鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺も同じく破却されました。

 明治時代になってから初代宮司の墓が造立されている事から江戸時代までは鵜戸神宮に「宮司」職位は無く仁王護国寺の別当が頂点でその下に神官が従属していた事が分かります。首の欠けた仏像はそうした不満の爆発かも知れません(これは鵜戸神宮に限らず全国至る所で見られます)。

 

参 考

11代宮司本部雅弘:鵜戸。2011年、72号。