吉野ケ里遺跡の外土塁・内壕:九州定年旅行 | のめしこき日記

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 御花で大名気分に浸った跡は、弥生時代を体験しようと吉野ケ里遺跡へ。

 受付で入園料を払い、田出川を渡ります。左上3階建ての建物が見えます。

 吉野ケ里は東西を田出川と三本松川(当時と川筋は変わっているでしょうが)に挟まれて、稲作には好適地だったのでしょう。

 入口。両脇には土塁・柵。入り口には鳥居の原型のようなもの。

 至る所にあって、ここから先は村人だけ・ここからは指導者だけのような結界を示しているのでしょう。

 

 一番不思議に思ったのがコレ。

 土塁・環壕(空堀だったそうです)・逆茂木。遺跡全体を囲む形で、このように配置されています。

 

 以下のような疑問を持ちました。

①位置関係が逆ではないか? 柵土塁の外側に環壕と逆茂木がある方が外敵を防御するうえでは合理的です。

②豪が浅すぎないか? 外敵防御のためなら、深く幅広い方が効果的です。クニ全体を守る壕にしては幅も深さも小規模すぎます。

③逆茂木が建ち過ぎていないか?  45度前後の角度で植えた方が効果的でしょう。

 通りかかった職員の話では吉野ケ里では最後の200年くらいは戦いがなく、壕にはごみとか捨てられていたとのこと。

 またある職員は中国を見習ったのではないかとのことでした。中国にこのような配置のものがあるとのこと。

 ネットで調べると、大塚遺跡がこのような外土塁の環壕を持っているとの事。

 

 なお、すべての土塁がこのようなものではなく、(吉野ケ里遺跡は700年近く続き)古い時代のものは土塁の前に壕があるものもありました。

 これは壕の後ろに土塁と柵を築きその奥の聖域を守っています。古い時代はこのような外堀・内土塁で、防御的に理に適っています。

 

 のめしこきの暴論。

 外土塁・内壕の理由を調べてみました。捕虜を収容するため(←無理があると思います)、敷地を広く取るため(内土塁・外壕でも大差ないような気がします)、とあまり説得力があるようには思えません。中国をまねたというのもヒンと来ません。

 そこで根拠の全くない暴論ですが、吉野ケ里の最後の200年くらいは周囲のクニを従えて戦いのない時代でした。戦いのある時代には内土塁・外壕だったものが周囲のクニを従えてからは、土塁・環壕・逆茂木は防御機能は象徴的な意味に変わってきたのだろうと思います。

 そしてより大きな意味合いを持つようになったのが、生活するうえでの快適性。湿地で竪穴式住居に暮らすより、少しでも乾いた土地に暮らしたかったのではないかと思います。排水機能の点で優れているから内壕になった(排水溝としての機能が中心になった)のではないかと愚考します。

 深い壕を掘っても田出川と三本松川の水位より深くなってしまえば意味がないので、浅い壕にしたのではないでしょうか。