原城とキリシタン墓(島原):九州定年旅行 | のめしこき日記

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  熊本城下で細川家歴代藩主の墓を見学した後は、フェリーで対岸の島原へ向かいます。キリシタンの墓と天草四郎の原城の見学です。

 

 キリシタン大名有馬晴信がこの地を治めていた頃セミナリヨ(カトリックの学校)がこの場所にありました。キリシタン墓はこの前を道路が走っているので、道路工事などで寄せられたものと思われます。

 向かって左端。正面にカルワリオ十字(「干」の印)が彫られています。

 

 左より2つ目。上面に花十字が彫られています。

 無印(多分十字が風化した)か十字が彫られているかの違いはありますが島原で見たキリシタン墓は全てこのようなかまぼこ型伏碑でした。

 

旅行前の疑問2点

・仏教式舟形立碑・板碑に似せたものでは無く、なぜ、かまぼこ型伏碑なのか。こんな独特な形状は目立ってしまう。

・説明書きがキリシタン墓で、隠れキリシタン(潜伏キリシタン)となっていないこと。

 

 そんな疑問を持ちながら原城へ向かいます。2の丸から本丸を望みます。

 

 宮本武蔵は幕府軍として参戦し、この空堀で一揆軍の投石が太ももにあたり、退役しました(熊本藩細川家に抱えられ余勢を過ごし、墓は細川家歴代墓地の一角にあります)。

 

 本丸跡に立つ天草四郎像。

 

 本丸から2の丸3の丸方面を望みます。かなり広大な城後です。

 

 原城に籠る一揆群(キリシタン家族と大坂夏の陣後の浪人)約3万を幕府軍12万が取り囲みました。初戦は善戦するも兵糧攻めに作戦変更され4か月の戦いは終了しました。籠った(城落ちした人も多かったようです)一揆軍は一人残らず殺害され、しかもキリシタンは復活すると信じられていたので、復活しないように頭部を切断されました。

 

 城は破却されるに伴い、石垣は下から4段以上は崩すよう命令がありました。

 

 崩されていないところは、後に農民が畑を作るために積み直したところだそうです。

 

 以上はたまたま出会った原城にとても詳しい人から伺った「情報です。この人にキリシタン墓について伺ったら、かまぼこ型はキリスト教が奨励されていた有馬晴信時代のものが運よく残ったもの。また、島原の乱後に正式に訴え出たものは破却するしかなかったが、訴えの無かったものは藩としても黙認したから残ったのではないか。

 島原はキリスト教徒はほとんど原城に入ったので、乱後の隠れキリシタン墓は無い。天草の方には隠れキリシタン墓があるとの事でした。

 

※ 島津家の墓でもそうでしたが、散歩している年齢が高めな男性がいたら挨拶して、話しかけてみるようにしています。かなりの確率で郷土史に詳しい方で、色々教えてもらえます。