1615年(元和元年)大和宇陀3万石に加え小幡2万石が織田信雄(信長次男)の領地となり、信雄は大和宇陀に居住し、信雄4男信良が小幡に入りました。石高は低いものの、信長の子孫として国主格の待遇をされていました。
信雄は小幡に居住はしなかったのですが、初代藩主になります。
手前の芝生の所に1871年(明治4年)の火事まで崇福寺がありました。
宝暦か明治のいずれかの火災に遭う前は崇福寺から回廊でつながって建屋があったようですが、火事により焼失。それからは露天にあったのですが、令和になって建屋を掛けました。藩主の墓は全て五輪塔です。
初代織田信雄 徳源院殿正二位前内府實巌真公大居士
いやぁ、長い戒名です。戦国時代秀吉と家康の間を行ったり来たりした元100万石清州城主です。京都大徳寺に埋葬するときに、大和宇陀と小幡にも分骨しました。
2代信良 心芳院殿前羽林次将松巌浄青大居士
3代信昌 實泰院殿中太夫兵部侍郎節巌英忠士
位号部にある「英忠士」あるいは「忠士」とは、ネットでは検索できませんでした。
4代信久 凌雲院殿太夫拾遺補闕兼越州太守嶮巌維峻大居士
2~3代と宝珠(笠の上のポッチ)の形が違いますね。それまで宝積寺が菩提寺でしたが、信久は廃寺だった崇福寺を改築し、菩提寺にしました。
5代信就 乾瑞院殿濃州太守拾遺闕亨巌元貞大居士
笠より上部が痛んでいます。
6代信右 桃渓院殿中大夫兵部仙巌宗壽大居士
五輪塔だそうですが、ひどい傷み。
7代信富 南溟院殿前泉州太守朝散太夫博巌宗翼大居士
5~7代の傷みは6代信右の時代の崇福寺火事、1871年(明治4年)の再出火によるものです。
信雄は17字
信良は16字
信昌は16字
信久は22字
信就は18字
信右は16字
信富は20字
いやあ、長い戒名だ。徳川四天王10万石初代館林藩主榊原康政でも12字(養林院殿上誉見向大禅定門)、5万石小諸藩初代仙石秀久も12文字。信雄が亡くなったのが1630年、康政が1606年、秀久が1614年。
2代将軍秀忠(1632年没)でさえ14字だから、長いのをつけるのは当時の崇福寺住職の好みなのかな。
隣接する崇福寺御霊屋の位牌。