円覚院殿宝誉道樹大禅定門・西念寺仙石秀久の墓~お墓の疑問99~ | のめしこき日記

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 息子の婚約の関係で佐久を訪れた折、戦国武将仙石秀久の墓も訪れてみました。

 讃岐13万石の大名だった秀久は秀吉の九州攻めの時の独断失策で所領没収の上高野山に追放されます。小田原征伐の折徳川家康の下で奮闘し、小諸藩5万石の大名として復活しました。

 慶長19年(1614年)、江戸から小諸へ帰る途中に発病し武州鴻巣で死去。西念寺にて荼毘に荼毘に付されました。

 2代藩主忠政の代から上田藩に移封されました。ですから仙石家墓所は本陽寺(上田市)にあります。

 秀久の墓は何カ所かに分骨されたようですが、慶長19年(1614)江戸から小諸へ帰る途中で亡くなり西念寺で荼毘に付されたそうです。その何カ所かある墓のうちの一つです。

 

 ですからこの宝篋印塔は慶長19年、あるいはその数年後以内に建立されたものでしょう。墓石に掘られているかどうか、風化と苔の繁茂で表面は読み取れませんが。

 正面。

 

 宝篋印塔は頂上が九輪・受花・宝珠となるのが一般的かと思います(下の写真は宗本寺:中之条町にある南北朝時代のもの)。

 

 背面。

 秀久の塔は九輪が省略されているように見えます。時代的な変化があるのでしょうか?

 

 基壇。

 

 実は仙石秀久の戒名「円覚院殿宝誉道樹大禅定門」がどこかに彫られているのかな期待したのですが、それは見つかりませんでした。