秋元家累代の墓がある光厳寺は総社藩(1602年)初代藩主秋元長朝が母親(上杉憲政養女妙耕院)の菩提を弔うために1607年に建てた寺です。
一方、元景寺は父親秋元景朝(1587年没)の菩提を弔うために1590年に建てました。総社藩は1602年立藩ですがそれ以前から総社領主でしたので、元景寺は領主時代に建てたことになります。
光厳寺・元景寺を見学して不思議だなあと思った事が2つあります。
①妙耕院が元景寺に葬られた件(妙耕院はなぜ光厳寺に葬られなかったのか)。
当主は当主家の宗派の寺に墓を建て、奥方は実家の信仰宗派或いは帰依した宗派の寺に葬られる(子供は当主家の寺に葬られます)・・・夫婦別氏だった江戸時代の大名クラスでは珍しくないのかも知れません。
例をあげます。
(小松姫の墓:芳泉寺)
松代10万石藩主真田信之は早逝した正室小松姫の墓を、勝願寺(鴻巣市)、在城地の正覚寺(沼田市)、上田藩主時(※)の芳泉寺(上田市)に分骨しました。それらはすべて浄土宗で、霊廟のある大英寺(長野市松代町)も浄土宗です。
一方秋元家は
・父秋元元景・・・菩提寺:曹洞宗元景寺。戒名:春光院殿気山元景大居士
・母妙耕院・・・・・菩提寺:天台宗光厳寺。戒名:光厳院殿心月等清大姉
にもかかわらず、妙光院の墓は元景寺にあります。光厳院の墓が元景寺にあります。
②秋元長朝はなぜ天台宗光厳寺を墓所にしたのか?
真田氏墓所は祖父幸綱・父昌幸の眠る曹洞宗長谷寺(上田市)でした。松代転封に伴い、長谷寺住職を開山とする長国寺に引き継がれました。
一方、秋元長朝は父景朝を曹洞宗元景寺に葬り、長朝は天台光厳寺を墓所にし、初代総社藩主秋元長朝以下秋元家歴代の墓が光厳寺にあります。
元景寺でも総社城からの距離とか地形的な問題は無いように思います。
真田信之の宗教的思考は一貫して分り易いけれど、秋元長朝の場合はなぜ母親の墓を元景寺に建て、長朝以下秋元家の墓を光厳寺を墓所にしたのか理由が分かりません。
※ 上田藩主時代に上田城再建の許可は下りず沼田城を居城にし、上田城3の丸に藩庁を兼ねた居館を建てました。