領民に敬愛されたお殿様~力田遺愛碑~ | のめしこき日記

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 光巌寺境内(前橋市総社町)にある力田遺愛碑(リョクデンイアイヒ)。

 向かって左面→裏面→右面に下のような文面が漢字文で刻まれています。

 

 秋元長朝は初代総社藩主として入封すると、利根川から灌漑用水を引いて荒地を潤そうと考えました。

 高低差を利用した引水には隣接の白井藩から用水を開削する必要があり、白井藩の了解を得て1602年小藩にとって莫大な費用負担になる難工事を開始しました。工事に参加した者には3年間年貢を免除し、1604年に完成させました(天狗岩用水)。
 その後隣接の幕府代官領でも開削が進められ(代官掘)、前橋・高崎・玉村地域に飛躍的な農業生産をもたらしました。

 両用水により開発された水田面積 1836町
 天狗岩用水地域の石高 17352石(1万石の小藩が17000石に)
 代官掘り地域の石高 9516石(隣接地域も1万石近くの増収)
 合計27000石

 長朝は1628年に亡くなりました。
 2代奏朝は1633年谷村藩に移封となり以後秋元家が総社に戻ることはありませんでしたが秋元長朝の功績を忘れることなく、また秋元家も総社の地を忘れることなく11代にわたる歴代墓所を光厳寺に造営しています。
 川越藩主4代秋元喬朝は総社領を治めた旗本安藤出雲守の暴政に対する総社領民の直訴に対し、老中として訴えを認める裁定を出しました(これは農民をひいきした訳ではなく公平に判断したという事だと思いますが)。農民は直訴で罰せられることもありませんでした。
 力田遺愛碑が立てられた後ですが、山形藩主8代秋元永朝は1783年(天明3年)の浅間の大爆発で甚大な被害を受けた総社領民に対し、山形から義援米を贈りました。

 

 力田遺愛碑のすごい所は文末に現れています。
・1776年(安永5年)に立てられたこと
 天狗岩用水完成(1604年)から172年後に立てられました。
・百姓等建と彫られていること
 領主や有力者が立てたのではなく、「百姓等」が率先して立てたこと。

 

 教科書で習ったように江戸時代に百姓一揆や打ち壊しなどもありました。しかし総社の地においては秋元家との長い交流もあり、秋元家を敬愛する農民等によって秋元長朝の功績が代々語り継がれて来たたということでしょう。

 

 この碑は全く知りませんでしたが、今回のサイクリングで一番印象に残るものでした。