武田勝頼を迎えるはずだった潜龍院05~潜龍院のその後~ | のめしこき日記

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 真田昌幸は関ヶ原の戦いに敗れ和歌山県の九度山で、信繁(幸村)も大坂冬の陣・夏の陣で奮戦し生涯を閉じます。
 家康についた長男信之(関ヶ原の戦いまでは信幸)は、上田・沼田城主から松代城主として長寿をまっとうしました。
 岩櫃城は1615年の一国一城令をもって廃城となりました。

 しかし、岩櫃城廃城後も潜龍院は続きました。昌幸の一族であった根津潜龍斉昌月という山伏が、山伏寺潜龍院として引き継いだのです。
 ですから、昌幸当時は潜龍院とは言わず、多分、御殿とかお館とか言っていたのではないでしょうか。
 潜龍院は修験道場(山伏寺)として江戸時代を過ごすことになりました。修験寺は寺子屋としての役割も担っていたそうです。
 一角には根津潜龍斉の子孫代々の墓地がありました(にわか墓標マニアののめしこきはそっちの面でも興味津々でした)。

 


 この墓標の文字はのめしこきには読み取れなかったのですが、「岩櫃条興亡史」にありました。

   祢津幸道法印 安政四年二月卒 52才
   同妻緒琹大戸自の墓 明治二十三年三月二十九日 84才

 とあるそうです。安政4年は1857年です。明治元年が1868年ですから、幕末です。
 祢津は根津と同じです。法印はこの場合は修験僧のことです。妻はオコトさんでしょうか。大戸自はたぶん大刀自と同じでしょう。刀自は年配女性の尊称です。
 当時の潜龍院は1682年の岩櫃山の大火で消失しました。その後再建され、1872年(明治2年)の修験寺廃止令で廃されました。この墓標にある緒琹大戸自は潜龍院の廃止をどのような気持ちで見守ったのでしょう。

 この墓地は現在まで受け継がれているようです。

嘉永2年は1849年です。

 

 

 


 宝暦12年は1762年。

 潜龍院が廃止(1872)されて12年後1884年、護摩堂は東吾妻町原町の顕徳寺に移されました。