信州上田~上田城~ | のめしこき日記

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 蕎麦を食べたので、オヤジと妻氏の目的は終了・・・帰宅・・・では娘氏が納得しません。
 シーズンオフの上田城です。
 上田市ではこれからこの区域をできるだけ昔の状態に近づけるのだそうです。当日、本丸跡内にある市民会館のさよなら行事が行われていましたが、整備計画の一環で、近い将来この跡地には武者だまりが再現されるためだそうです。
 この図の右側より入っていきます。

 


 二の丸の堀です。今は空堀ですが、当時はどうだったのでしょう。底はまだこの下にあります。
 本丸の東虎口櫓門です。12月から3月はシーズンオフです。シーズンになると、この3つの櫓に入ることができます。

 

 

 


 東虎口櫓門の左側はこのような絶壁です。本丸を過ぎた奥の方もこのような絶壁になっていて、こちらから攻め入るのは難しそうです。
 上田城と真田氏を有名にしたのは2度にわたる徳川氏との戦いでした。
 1回目は7000の徳川方と1200の真田方が戦い、真田の大勝利となりました。この時は真田昌幸の長男信之は徳川方と戦っています。この戦いで真田の実力を認めた家康は家臣の本多忠勝の娘、小松姫を信之に嫁がせました。
 2回目は、信之は徳川軍の先方として戦っています。対する上田城内には昌幸・幸村(信繁)父子が籠城しています。開城を求める徳川方に父子はのらりくらりと時間を稼ぎ、業を煮やした徳川方38000が攻めると、城におびき寄せて反撃し、2000の真田方の勝利に終わりました。勝利というより、関ヶ原に向かい西進する徳川秀忠の軍を4日間釘付けにして、関ヶ原の戦いに参戦させなかったという意味での勝利です。籠城と言っても、写真の城に立てこもったのではなく、三の丸の内側に籠り、時には打って出て、時には中(市街)に引き込んで戦ったということだろうと思います。
 親兄弟が敵味方に分かれたのは、昌幸の妻は石田三成の妻の姉妹、幸村の妻は大谷吉継の娘で西軍、信之の妻小松姫の父親は東軍だったことが関係しているのだと思います。いつの世も妻は強し、ということでしょうか。
 現在の上田城は真田信之が松代(現長野市)に転封後入った仙石氏により再建されたものだそうです。しかし上田市民は真田氏の城下町であったことを誇りにしています。街中のいたるところに六文銭が見られます。
 千本桜の蕎麦にも(笑)。
 上田城本丸跡に鎮座する真田神社で御朱印をいただき、帰宅しました。