大意把握について | こくばん塾 生田英数会 塾長のブログ

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大意把握について

 

東大の第1問は例年要約の問題です。東大を受けるような学生は第1問のような英文は日本語のように「ふむ、ふむ」と読めるのが普通です。東大はレアな単語で威かすようなことはしませんから、単語でつまる心配もまずありません。読み取って、あとはどこを切り捨て、どこを残して筆者の論点をさくっと字数内におさめるか、の勝負。要約という段になれば、英語力というより常識力。つまり「このひとの言ってることって、例のあの話ね」という掴み。これがないといくら英文が読めていても要約は苦しい。逆に言えば「はいはい、この主張、どっかで聞いたことある」でもう解答できる。いままでどこかで聞いたことの無いような新説、珍説が出題されたためしは私が知る限りありませんでした。

 ところがこの大意把握に関して神話的ともいうべき「誤解」があり、未だに正々堂々と大御所の本にまで載っていたりするので、この際はっきりさせておきたいのです。

 その誤解とは「いちいち知らない単語でたちどまって辞書をひいたりしているから、迷子になって全体の論旨がつかめなくなる。なるべく辞書はその都度引かず、文脈から想像しスピードを持ってよむのがよろしい。そのほうが英文を読む醍醐味も味わえる」云々。

 この神話のせいで、基礎力の足りない学生が辞書を引くのをうざがり、テキトーなアテ感で速読とやらをやらされるようになると、もうおしまいになります。

 要約という「要を得た短文」に到達するには、その元になる「ロウデーター」にあやふやなところがあっては実はお話にならないのです。大意が取れないのは辞書をひいて立ち止まるからではない。その話が腑に落ちるだけの素養に欠けているからです。そしてその素養も大事に決まっていますが、それとは独立して「英語そのものの正確な読み」がまず前提。そこがあやふやでは何百の文を読んでもやっぱりあやふやなまま。なんの経験も積み重なりません。精読された文を簡略にすることは国語力と常識力があればいつでも出来ますが、もとのデーターがぼんやりとしていたら「要約」も「大意」も無意味になるでしょう。