脱9条のススメ    護憲・リベラルのための憲法9条講座 -5ページ目

脱9条のススメ    護憲・リベラルのための憲法9条講座

かつてガチガチの9条平和主義者だった私がその大矛盾に気づいてしまいました。
様々なテーマでリベラルの視点から、具体的・論理的に脱9条論を展開します。

前回『自衛隊合憲論にはやっぱり無理がある』に続き9条支持・群青さんのコメントへの返信である。
まずは今回の分の群青さんのコメントを紹介する。

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(5) 同時に安倍政権「平和貢献」は米軍等の下請け部隊として自衛隊を差し出すもの。米軍事に言いなりになる事が色んな意味で日本の自由陣営の中の立場をよくするという米国価値観のグローバルスタンダードそのものだという訳です。

 (6) 米軍はアフガン・イランイラクと20年程戦争を止める事が出来ないで大量の一般住民、赤ん坊を殺しました。その下請けとして自衛隊を派遣すれば、相手国の 住民や国の幹部から「日本は戦争する国になった」んだな~と受け取られます。アフガンでのペシャワール会の中村哲さんやその他の戦地で活動するNGO職員 達が危惧されている事です。
戦場の住民、武装ゲリラがそう思ってしまえば、自衛隊だけでなくNGO職員も殺されます。このように、九条子さんとotowさんの会話以上に、戦場の相手 側がどう判断するかがミソだと思います。自分個人としましては、憲法九条「武力行使の禁止」が生きていることは大切にしたいです。

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では私のお答えを。

(5)について。

  日本がこれまで米国追従で来たことは大前提です

そもそもここでの主題の記事
『集団的自衛権で日本はアメリカの戦争に更に巻き込まれるのか』
ではこれまで日本の外交がずっと米国追従だったこと、自衛隊の“国際貢献”もアメリカの下請けだったことを前提として、じゃあこれを打開するためにどうすればいいのか、を考え提言した記事です。それなのにその“前提”について群青さんに改めて指摘されるってどういうことなのか不明です。ホントにこの記事読んだのかなあ、って。
 私の提言ではイラク戦争において米国批判をしたドイツ・カナダをお手本に、日本にだって脱・米国追従は可能だって結論になるわけですが、この記事に異論反論がお有りならこの提言の矛盾・事実誤認・論理破綻等をご指摘下さい。提言の前提となる事実認識については私と群青さんは完全に一致しているのですから。

   自由主義陣営のド真ん中にいても米国批判は可能です

 “自由主義陣営の中での立場をよく”しようとするのは、当然です。日本が核保有国でもなく、スイスのように “国民皆兵、最後は国土を焦土にしてでも自国は自力で守りぬく方針の国”でない以上、自国だけで安全を保障するのは事実上不可能だからです。だから同盟国を重視するのは当然で、その中での立場を良くしようとするのも当然ということです。
『国を守るには集団的自衛権以外に3つの方法があるが・・』参照

 ただそのことと“米国価値観・グローバル・スタンダード”だとかは別の話です。
『集団的自衛権で・・・・』の記事でも述べたようにイラク戦争時に、カナダ・ドイツ・フランスなどは“自由主義陣営”のド真ん中にいましたが、米国の方針に真っ向反対することが可能だったわけですから。

(6)について。

   私は一貫してイラク戦争は非難しているのに・・・

 ここで米国の失敗した戦争の実態を書き連ねるって、私がそれらの戦争を美化正当化した事の反論みたいな位置づけですが、イラク戦争の認識も群青さんと全く一致していて、一貫してイラク戦争を非難しているし、日本も協力すべきでなかったと言っている。

 それなのにこういう“イラク戦争の悲惨な実態”みたいなことを書いてくるっていうのはやはり、9条支持者が脱9条人を見るときの特有の思い込みのせいでしょうか。
 つまり“日本と世界の平和のための崇高で不可侵の9条に反対するなんて、この人は戦争の悲惨さの実態を知らないからなんだ。ここは私が教えてあげなくちゃ”って。
 まあ私も実際の戦争体験したわけじゃないけど、戦場で一般市民、子どもたちがどんな目にあっているか、現代の戦争や、かつて日本が始めた戦争について、平均的日本人以上には知っています。あんなこと繰り返しちゃいけないって思いは9条派の人達にも負けないという自負もあります。じゃあどうするのか、の部分が違うだけです。

   戦車よりも畑を、でも畑を守るには戦車も必要だ

 中村哲さんの活動については私ももうただただ尊敬の一言です。
 ところで群青さんは私の記事『戦車よりも学校を、でも学校を守るには戦車も必要だ』に“いいね”してくれましたよね。ということはこの趣旨にもソコソコ賛同してくれたと解釈しています。
で中村哲さんの活動ですが、私はやはり思うわけです。
 “戦車よりも畑や灌漑水路を、でも畑や灌漑水路を守るには戦車も必要だ”って。
(実際の中村さんの周辺で戦車が必要だということではもちろんありません。紛争地域周辺の事情の一つのたとえ、です。)
  それはまたNGO職員の命だって同様です。群青さんは 現地の住民や武装ゲリラ”に“日本は戦争をする国になったんだな~”と思われると 、NGO職員達が殺されると言いますが、彼ら武装勢力がどう思うかなんてのは全く彼らのリクツで成り立つわけで、たとえば周辺武装勢力の了承を取り付けて、非武装の国連職員がアレッポに生活物資を運んだ時だって襲撃されて殺されてしまうわけです。この襲撃殺人は“国連は自分らの敵なんだな~”と武装勢力に思われたことがマチガイだったんですか。私なんかあんな大隊列で救援物資運ぶんだったら重武装の護衛を付けるべきだったのに、と思うのですが、それをしたら今度は“国連は自分らと戦争をする組織なんだな~”と思われて、やっぱり殺されるってことですか。

   誰が“マララさん”を守るのか

 群青さんはこういった紛争地帯の学校や子どもたち、あるいは畑や灌漑施設、更には非武装のNGO職員とかは誰がどのように守ればいいとお考えですか。もちろん現地の政権・警察・軍がしっかりと機能していれば問題ないわけですが、そうでない、正に一部南スーダンとか、マララさんのパキスタン・タリバン支配地域とかイラク・シリアのIS支配地域とか。
 南スーダンでのようにアジア・アフリカの途上国の軍隊を国連の費用で派遣してPKO任せればいいんですか。他の欧米諸国のようにそんな危険なところに先進国の軍が行くのはバカバカしいですか。
 そんな紛争地帯行って現地の民間人や武装勢力に“敵だとみなされてしま”い殺されてしまうから近づかないほうがいいですか。だったら世界中の紛争地帯に今も取り残されている“マララさん”達は誰が守るのだろう。“

     学校は作りたい。作った学校は守りたい。

 これはとてもむずかしい問題です。そして政策選択の問題だから“これが正しい”という正解など存在しません。
 ただ群青さんやテレビで見る限りの伊勢崎さんのコメントとかでは、PKOで一番大切なのは、自衛隊員が犠牲にならないこと、戦闘に巻き込まれないこと、日本国が敵視されないことであって、現地の平和維持活動など二の次という印象を受けます。そうであるならば海外になど行かない方がいいに決まっています。それも一つの正解だとは思う。

 二の次”などという言い方は正確ではないし失礼ですね。“日本には日本ならではの貢献がある”ということなのでしょう。学校建設・医療支援・農地開発などなどなど。でも日本がせっかく整備したそれらを武力で壊されちゃうのは悔しいし、何とかしたいじゃないですか、ということです。
 PKOでありながら先進国の軍が危険だからと立ち入らない地域の、世界中にいるマララさんや、その学校や、せっかく作った農地を守るために、日本の自衛隊がお役に立てたらどんなにいいかと思う。そこで不幸にも何人かの自衛隊員の命が犠牲になろうとも、その何百倍・何千倍のマララさんの命が救えたらどんなに素晴らしい国際貢献・平和貢献だろうかと思うのです。
 
    もちろん命は大事です

 もちろん自衛隊員の命を軽んじるつもりなど毛頭ありません。ただ自衛隊員に限らず、警察官にしろ消防士にしろ海保隊員にしろ、時には東北大津波の時みたいに市役所の広報課の女性職員だって自分の命と引き換えに市民国民の命を守ろうとするわけです。時には一般市民だって。
 ただただ感謝と尊敬です。
 それなのに自衛隊員が他国のマララさん達を守ろうとすると、米軍の下請けだ、海外派兵だ、戦争への道だ、犬死にだって話になってしまう。

 もちろん個々のPKO事例において自衛隊を派遣するかどうかは慎重にも慎重を重ねて事前の調査準備は必要でしょう。今回の南スーダンPKOだって説明不足だし、日報は改ざんするしかなり前のめりで行かせてしまっている感は否めません。
 戦場のまっただ中に自衛隊を派遣すべきだとも思わない。ましてや米国に代わって“世界の警察”になるべきだと言っているわけでもありません。

(ところで群青さんのコメントに次の一節があります。“九条子さんとotowさんの会話以上に、戦場の相手 側がどう判断するかがミソだと思います 。” が、私は九条子さんとの会話で戦場の話にもPKOの話にも全く触れていません。テーマはあくまで“アメリカの戦争に付き合わされない方法”であって、外交・安全保障政策の話であり、戦場に行く前の話です。やっぱりちゃんと読んでないのじゃないかなあ)

    失敗をしないためには何もしないのが一番です

 更には現実の問題として、あらゆる政策がそうであるように、その政策に矛盾や副作用はつきもので、さらに政策判断の失敗や現場の運用の失敗もあり得る。
 勇んで自衛隊を派遣したはいいが、多数の犠牲者を出した上に一人のマララさん一坪の農地も守れず大虐殺も止められなかったとか。
 そのような失敗をせず批判もされないためには何もしないのが一番ではあります。アレッポへの物資輸送だって、何もしなければ殺されることもなかった。
 あるいは今までのように米国追従を続けていれば、たとえ失敗しても米国のせいにしておけばいい。
 しかしそれでは世界中のマララさんを放置することでしかない、と言うのが私の思いです。

 そうならないために自衛隊がお役に立てるのであれば、大いに活躍してほしい。その活躍に9条が“足かせ”となるなら、9条をまず改正、あるいは少なくとも第3項を追加すべきではないか、というのが私の考えです。
 まだ自衛隊などなかった65年前に作られた憲法に、現代の政策・自衛隊の活動が縛られるという奇妙な状態を脱し、今日本国が、自衛隊が、何をすべきなのか何ができるのかを考え、国民の合意を形成して憲法を再構築すべき時期がさすがににもう来ているのではないか、ということです。

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 群青さん、長い文章にお付き合いいただきありがとうございます。文中一部不快な思いをさせる表現もあったかもしれませんが、平和を求める率直な議論のためゆえお許し下さい。

  引き続き異論反論ご意見大歓迎です(他の人も)。ただ引き続きコメントはこの記事に沿ったものでおねがいします。今回も群青さんのコメントは、私の記事『集団的自衛権で日本はアメリカの戦争に更に巻き込まれるのか』はそっちのけで、群青さんのPKO論であったように思います。まあPKO論と“自衛隊合憲論”“命が大事・論”についてはいつか書こうと思っていたので、これをきっかけにエイっと書き上げたので感謝、ですが。(苦笑)

 

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 追記

 

この記事にギター弾きさんというご護憲派ブロガーが自らのブログで批判記事を書いた。

この経緯と私のお答えは『護憲派はヒーローがお嫌い?』にて。

反論は『私が言ってもいないことに反論して“論破した”といわれてもなあ。私からの反論』

『護憲派ブロガーGさんの仰天理論 “自衛隊と機動隊が戦う日”』にて。

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 当ブログの記事『集団的自衛権で日本は米国の戦争に更に巻き込まれるのか』に9条支持者である“群青さん”からコメントを頂いた。本来コメント欄にて返信すべきなのだろうが、群青さんからの問題提起が複数あり、これに答えるにはコメント欄は狭っ苦しいので、ご本人の了承を得てこのブログ本欄を使うことにする。

 もちろん記事化する理由は単に“狭っ苦しい”からというだけでなく、このブログの一番の目的が私の言う“9条派”との“対話”にあるからである。また群青さんのコメントが一部 “9条原理主義者”のような現実無視の絵空事ではなく、しっかりと現実世界をとらえた上でのものである事、さらには以前私の他の記事にも好意的なコメントや“いいね”を寄せて頂いた、いわば“話の通じる”人であると思われたので、敢えてお答えする価値があると判断した次第でもある。

 私から見ると“改憲派”にしろ“護憲派”にしろ多くは自分の理屈を振りかざすばかりで相手の土俵に上がって議論する、という姿勢が見られない。そんな中この“脱9条のススメ”という土俵に上がってくれた群青さんには敬意を表したい。その上で9条派・脱9条派が議論不能になっている、そうした現状を打開する一つの試みとしたいという思いである。

まずは群青さんのコメントを紹介する。箇条書きの数字は応答がわかりやすくなるため私が付したものです。

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otowさん、群青です。伊勢崎賢治さんの新九条論がotowさんのお考えのベースと感じました。

自分の考えの要点は、次のとおりです。

(1) 九条「武力行使の放棄」は海外派兵可能状態の現在でも生きており、南スーダン派遣の自衛隊は守っていかざるを得ない最高の規範で、他国派遣軍と異なり攻撃 を仕掛ける訳にはいかず自衛隊員の正当防衛の場合だけ応撃するもの。この意味で際限の無い戦闘役割を日本からの派遣部隊は負うことができず、その事は南 スーダンPKO司令部にも伝えられていて、いうならママッコ扱いをして貰っている状態です。

(2) しかし同時に、戦場では相手があり、偶然に起きるかわからないのでは無いでしょうか。戦場では国際戦時法しかありません。日本国内の上に述べた九条による 制約を敵兵が承知している訳ではないし、銃や砲を有していなくも戦闘服を着ているだけで「軍隊」であり敵軍です。その中、正当防衛のつもりでも一旦銃口か ら火を噴けば、応戦合戦となって実質戦争状態になるんだと思います。

(3) そんな事で解釈改憲による安倍安保法制は、大義名分も与えず自衛隊を犬死させるだけのもの。

(4)「戦争したい」かどうかですが、主観的に総理がどう思っているかは「世界の平和に貢献」という説明どおりだと思います。

(5) 同時に安倍政権「平和貢献」は米軍等の下請け部隊として自衛隊を差し出すもの。米軍事に言いなりになる事が色んな意味で日本の自由陣営の中の立場をよくするという米国価値観のグローバルスタンダードそのものだという訳です。

(6) 米軍はアフガン・イランイラクと20年程戦争を止める事が出来ないで大量の一般住民、赤ん坊を殺しました。その下請けとして自衛隊を派遣すれば、相手国の 住民や国の幹部から「日本は戦争する国になった」んだな~と受け取られます。アフガンでのペシャワール会の中村哲さんやその他の戦地で活動するNGO職員 達が危惧されている事です。
戦場の住民、武装ゲリラがそう思ってしまえば、自衛隊だけでなくNGO職員も殺されます。このように、九条子さんとotowさんの会話以上に、戦場の相手 側がどう判断するかがミソだと思います。自分個人としましては、憲法九条「武力行使の禁止」が生きていることは大切にしたいです。
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 以下、2回に分けて、私の見解を述べます。

(1)について。

    昔は護憲といえば非武装中立だったのに・・・

 群青さんはまず、九条「武力行使の放棄」を取り上げましたが、、私がこのブログで最もこだわっているのは、前回の群青さんへのコメント返信でも記したように、9条の第2項“陸海空その他の軍事力を保持しない”という規定と自衛隊の現状との不整合性です。
 フツウに日本語として見た場合、あるいは憲法成立の過程、状況を考えれば自衛隊が違憲であるのはアッタリマエの話だと思うのですがそのアッタリマエが通らない。かつては護憲の主張といえば“自衛隊は違憲”すなわち“非武装中立”と決まっていたのに、国際情勢、特に東アジア情勢の変化とともに護憲派の多くが“自衛隊容認”へと変わり、各種世論調査を見ても今もその数が増えているようです。
(群青さんの前のコメントでも2年前までは9条夫人のような“自衛隊違憲派”が多かったとのことでしたね)
 現実を見据え、認識を変えてゆくのは大変良いことなのはもちろんですが、自衛隊の認識をこれだけ変えたのなら、“転向宣言”なり“いままでは間違ってた宣言”なり出してもいいと思うのですが、私の知る限りそんな言論人も政治家もいなくて、みんなズルズルといつの間に自衛隊容認に変わったようです。そしていつの間に“自衛隊違憲”論は完全に置き去りにされてしまいました。今どき“非武装中立”をいう人もいなくなってしまった。
 “自衛隊は容認するが、九条だけは変えてはならない”という“新護憲派”の誕生です。
 
   “自衛隊合憲論”を支える3つの“理論”

 “自衛隊は合憲である”との主張はいわゆる“保守”からもなされています。まあ政権与党としては自分の政策が違憲だというわけには行かないので合憲と言い張るしかないわけですが。
 一方現実政治に直接関知しない野党とか一般市民は正論を通して“自衛隊は違憲である”と主張し続ければいいわけですがそうはならない。まあ、その違憲論の先には、“だから自衛隊を無くせ”と “だから憲法を改正しろ”の2つにわかれるわけですが。
 ともかく保守・護憲を問わず自衛隊合憲の理屈付けは主に以下の三つあるようです。

1.日本国憲法は25条において生存権を規定している。この規定は9条よりも優先されるべきであって、従って国家国民の生存のため武力による自衛は認められる。従ってその自衛のための戦力の保持は憲法でも認められる。従って自衛隊は合憲である。

2.自衛のための戦争は国際法でも認められている。従って戦力の保持も認められるわけで、国際協調を謳う日本国憲法の理念に照らせば、9条の規定も国際法の範囲であるはずであり、従って自衛隊は合憲である。

3.9条の一文 “国権の発動たる戦争”について、国権の発動とは侵略戦争のことであり、9条2項が禁じている“軍事力の保持”も“交戦権”も、“国権の発動のために”すなわち“侵略戦争”のために保持することを禁じているのであって、自衛のための保持を禁じているのではない。従って自衛隊は合憲である。

   じゃあ9条2項って何のためにあるの?

 まあどれもこれもよくぞここまで屁理屈をひねり出せるもんだと思うのです。結局9条が戦力の保持を認めているのなら、9条2項など初めから存在しなかったはずなのです。じゃあ9条2項は何を言いたいのだって話です。
 侵略戦争の放棄は第1項が規定しているとして、そのような憲法規定なら日本以外にもあって珍しいものではない。日本の9条にだけ軍事力の放棄が明記されている事の意味は何なのだってことです。議論の余地はないと思うのですが。
 まあ、その屁理屈の中身についていまさらケチを付けてもしょうがないでしょう。一時期流行った憲法の神学論争になってしまう。この面から議論をしても合意なんか得られるわけがない。
 あるいは私が知らない“第4の屁理屈”があるのかもしれませんが、それを探して論じてもきりがないということです。

   “自衛のための戦力を容認”と明記すればいいのだが

 私がいいたいのはこれらの屁理屈は認めた上で、(“複雑で難解な解釈”、と言い直しましょうか)じゃあその屁理屈を9条に付記、明記すればいいじゃないですか、ということです。
9条2項の後に3項として例えば“ただしこの規定は自衛のための戦力の保持を規制するものではない”とか。その理由付けとしてあの屁理屈を付記したければすればいい。“ただし生存権確保のため”とか“国際法の精神に照らして”とか。
この一文を加えるだけで戦後日本が抱えてきた自衛隊違憲論あるいは“違憲の疑いもある論”は全て解決。国民の多数派の意識とも合致して何の問題もないはずです。

   “ハドメ理論”と“9条の呪縛”

 で、ここで持ちだされるのが次のようなリクツです。
“すべての戦争は自衛の名の下で始められる。憲法で自衛戦争を認めてしまえば、日本はまた侵略戦争を始める。そうならないためには9条を守り続けて戦争へのハドメとするのだ”
 これを私は“9条のハドメ理論”とよんでいますが、この理論が如何に破綻しているかは
『変な主張5・確かに自衛隊は違憲だが9条がハドメと成って戦争を抑止しているのだ』
を御覧ください。
結局どう見ても理論上、自衛隊の存在と9条は相容れないのです。それでも9条をいじりたくないのはナゼか。これについては
『9条の呪縛・良心的9条派はもがきう苦しむ。頑張れ宇野常寛さん』を御覧ください。

 以上私としては群青さんがまず取り上げた「交戦権の放棄」以前に自衛隊の存在ソノモノが憲法違反と考えています。自衛隊が違憲である以上、“交戦権”も違憲であるのは当然です。
 従って私にとっては、群青さんの以下のコメントで“憲法が禁じているから”という理由による話は全て意味のないことになります。これだけ無残に踏みにじられている9条に今更どういう規範を求めても無意味であるということです。
大切なのはまず9条を正常化して立憲主義と法治国家を取り戻すこと、でしょう。

 よって以下は憲法の話は脇に置いといて話を進めます。

(2)について。
 全くその通りで異議ありません。戦闘の起こりうる危険な地だから自衛隊が行くわけで、そうでなければ一般の政府職員なり土建屋さんなりだけが行けばいいわけです。その点“危険性がない”などという日本政府の答弁はそもそも矛盾しているしマヤカシであると言えます。

(3)について。

   大義名分はある。よって犬死に呼ばわりすべきでない

 南スーダンへのPKOは当然のことながら国連が平和維持活動の必要を認めた“大義名分”があるわけです。その上で“自衛隊が行くべきか、あるいはどのように行くべきか”についての政治判断はいろいろあっていいとは思いますが。大義名分がある以上、その任務で残念なことに死亡することがあっても“犬死に”よばわれするいわれはないのじゃないですか。
 もちろん私は“国連は絶対正義の国際機関だ”等と言っているのではありません。また今回の政府の政治判断が絶対正しいと言いはるつもりもありません。ただ少なくとも“大義名分”はあるということです

(4)について。
この辺りの冷静さが、私が群青さんのコメントに出来るだけ真正面からきっちり答えようと考えた理由でもあります。世の9条派の中には“とにかく安倍は戦争がしたいのだ”と信じて疑わない人もいますから。

(5)(6)については次回とします。『誰がマララさんを守るのか・投稿コメントへの返信・2』参照

群青さん、ご協力改めてありがとうございます。
異論反論ご意見は大歓迎です。ただあくまで今回のこの記事に沿ったコメントでおねがいします。あまりテーマを広げすぎると収拾がつかなくなりますので。


追記

 

この記事を批判する記事を護憲派ブロガー、ギター弾きさんが自らのブログに掲載した。その記事への私の反論は

『私が言ってもいないことに反論して“論破した”とか言われてもなあ。私の反論』
にて。










 

   軍事研究を拒否する“良心的学者”の“歴史に学ばない幼稚さ”

 防衛省の研究事業についてこれを拒否することが“学者の良心”であるかのような風潮が一部にある。 (安全保障技術研究推進制度・予算は17年度約100億円)
 こんな“人殺しの研究”に応募し研究費をせしめるのは“悪魔に魂を売る”ことだというわけである。
 そんな中、法政大学は防衛省の研究費への応募は認めないとする指針を発表した。
その理由が笑える。
 “軍事研究や人権抑圧など人類の福祉に反する活動は行わない”ためだそうである。
 “戦争中に大学が軍事研究に加担した反省”に基づくそうである。

 軍事研究を人権抑圧と並ぶ人類の福祉に反する“絶対悪”と位置づけているところが、9条派の相変わらずの“歴史に学ばない幼稚さ”といえるだろう。

   軍事力によって人権・正義を勝ち取ってきた人類の歴史

 歴史を振り返れば、多くの“人権抑圧政権”を軍事力によって人類が打倒し、無辜なる市民を解放してきたことは枚挙にいとまがない。米国の奴隷制を開放した南北戦争、ナチスのユダヤ人虐殺を食い止めた連合国の軍事力。最近の例で言えば、ユーゴスラビア崩壊後のコソボ・ボスニア紛争を鎮めたのもNATO の軍事力であった。
 もちろん一方で軍事力が侵略の道具・人権弾圧の道具に使われてきたことも事実である。それを否定するつもりなどない。
 つまりそういうことである。軍事力は絶対悪でもないし絶対善でもない。 人類が生み出した他の全ての文化文明と 同様、その使い方次第で悪にも善にもなりうるということだ。科学技術・芸術・文字・組織・インターネットなどなどなどなど。

 仮に彼ら9条派の歴史観・価値観に合わせて “戦争中に大学が軍事研究に加担した” 事が“過ち”だったとしても、それはその事例がそうであっただけで、軍事研究ソノモノが常に悪である証明にはもちろんならない。さらに引き続き彼らの歴史観にあわせて言えば、その日本の戦争が仮に“悪”であったならば、その日本の“軍国主義”を打倒したのは米国の軍事力だったのではないか。その米国の“正義の軍事力”がなければ“日本による悪の戦争”はさらに暴走・拡散したってことじゃないのか。9条派さん、それでよかったのですか。
(くどいようですがここでの話はあくまで“9条派の歴史認識”に基づいたものであって、私の歴史認識ではありません)

 広島・長崎への原爆投下が悪だったとしても科学技術ソノモノが悪だということにはならないし、ナチスの宣伝に映画芸術が大きな役割を果たしたからといって、芸術ソノモノが悪ではない。インターネットを使った犯罪が多発したからといってインターネットが悪いわけではない。アタリマエの話である。こうした“文明の利器”が便利であればあるほどその取扱には充分な注意が必要である、それだけのことだ。

  “戦車よりも学校を” しかし学校を守るには戦車も必要だ

 “学問の府”と軍事力との関係でいえば、彼ら9条派の最近の“お気に入り”にノーベル平和賞を受賞したマララさんのスピーチがある。
 “戦車よりも学校を” である。(注)
 女性に学問の自由が認められないタリバン支配下で学び、戦い続け、そして殺されかけたマララさんの言葉は我々の胸を打つ。しかしちょっと待て。文明国で、性別を問わず、万人に最低限の学問の自由が保障されている状況下の我々が“胸を打たれ”て感動するだけでいいのか。マララさんを救出するのにのに戦車の力は必要だったんじゃないか。マララさんの望む学校をいくつ作ったって、戦車の力が無ければまたタリバンにその学校を破壊されてしまうのじゃないか。学校で学ぶ少女たちが虐殺されてしまうのじゃないか。学校を破壊するのが軍事力であるのならこれを守るのに軍事力は不可欠ではないのか。

 もちろん私は軍事力だけで平和を守れるなどと言っているのではない。国家間・民族間の格差是正や、学校を襲うタリバン参加者・その予備軍への教育・福祉・雇用等を充実させることも急務だろう。しかしその一方で今現実に学校を襲う勢力がいる以上、これに対処する軍事力も必要であると言っているのだ。アタリマエの話である。

(注) 実際のマララさんのスピーチでは
“ 戦車を作るのは簡単で学校を作るのは難しいのはなぜですか”
であり、日本でよく引用される “戦車よりも学校を” のように、戦車の存在を軽んじているのでも、両者の重要性を比較しているのでもないことがわかる。この辺り、相変わらず日本の9条派が意図的に自らの主張に引きつけて誤訳している事が伺える。
 実際、タリバン兵に襲われた少女たちが真っ先に求めたのは、自分たちを救出しタリバン兵をやっつけてくれる、味方の武装兵だったのではないか。そんな生死の極限状況を生き延びたマララさんが“戦車”を否定するとは思えない。
 日本の学校に侵入した不審者を先生たちがサスマタで取り押さえようというのとはワケが違うのである。

 そして今現実に日本が相対してるのはタリバンとかの、原始的兵器だけで戦っている勢力ではない。経済や国民生活そっちのけで軍事力強化を再優先にする北朝鮮であったり、この10年で軍事費を10倍にし、スキあらば他国の無人島を埋め立てて軍事基地作ってしまう中国だったりするのだ。オマケにどちらも核を保有している。仮にそれら隣国による侵略・攻撃を許すスキを作ってしまえば、法政大や“良心的学者”が尊重したいであろう “学問の自由“ も “大学の自治” も吹っ飛んでしまうのである。
  (『強い国より優しい社会、ですって』
  『領土問題などどうでもいい、尖閣など中国にあげてしまえ、という9条さんへ』参照)

 更にはトランプ政権になり、米国の軍事力も核の傘もどれだけあてに出来るのか全く不透明な時代に我々は置かれている。そんな中自ら戦争を仕掛ける理由など全く持たない日本※が自国防衛のため“軍事力研究”を各大学に要請するのが何が悪いというのか。
※(『安倍晋三は戦争がしたくてたまらないという9条派の思い込みに論理的に反論しましょう』参照)
 そしてもちろんここで言う“自国防衛”の“自国”とは9条派が“国家”としてイメージするような“一般市民を弾圧・搾取する恐ろしい怪物”なんかじゃなく、平穏な市民生活であり、言論の自由であり、基本的人権が保障された社会、ソノモノなのだ。(もちろんすべての社会がそうであるように、日本においてもそれらの充実が100点満点ではないにしろ)

   “事実に基づかない暴言・妄言”を許してはならない

 法政大学では、昨年7月に検討を始め、1月の常務理事会で今回の指針決定に至ったそうである。その間7ヶ月、こういうあたりまえ理屈も歴史事実も検討されなかった、検討されたとしても採択されなかった最高学府の常務理事会を思うと実に笑えるのである。しかしもちろん笑い事ではない。
 トランプ就任以来、彼の “事実に基づかない暴言・妄言” が批判的に取り上げられるが、わが日本国におけるこうした指針の決定も正に“事実に基づかない暴言・妄言”のたぐいであるといえる。正に “日米を代表するポピュリズム”といえよう。
『9条守れ運動のポピュリズム度を検定する』参照)

 ところで法政の総長は田中優子氏だそうだ。あのサンデーモーニングによく出る着物の人かあ。なるほど。
『しまった、関口宏のサンデーモーニングを見てしまった』参照)