脱9条のススメ    護憲・リベラルのための憲法9条講座 -4ページ目

脱9条のススメ    護憲・リベラルのための憲法9条講座

かつてガチガチの9条平和主義者だった私がその大矛盾に気づいてしまいました。
様々なテーマでリベラルの視点から、具体的・論理的に脱9条論を展開します。

護憲派ブロガー“ギター弾きさん(略称)”が自らのブログで私のブログ記事

『誰がマララさんを守るのか』など)への批判を展開している。今回はその批判記事の一つ、http://ameblo.jp/file9zyo/entry-12247388837.html

への“私のお答え”3回めである。

 初回は『護憲派はヒーローがお嫌い?』

 前回は『私が言ってもないことに反論して“論破した”とか言われてもなあ。私からの反論です』

 初めはかなり消極的に始めた“お答え”であったが、こちらの側に常に学ぶ姿勢・意欲があれば、どんな題材でもネタにはなるものだなあというのが実感で、3回めまで来てしまった。これで最終回です。

 

 ギター弾きさんの批判文は、そのほとんどが私が言ってもいないことへの批判だったり、言ったことを無視しての批判だったり、意味不明の喩え話やよくわからない歴史事実を元にした批判だったりだが、私はそのひとつひとつに丁寧に反論した。不毛な作業だった。

 が、ギター弾きさんの批判文の最後にすごいケッサクがあったので今回はこれについて“研究する”

 

ギター弾きさんのその文は次のもの

 

   マララさんのような人は日本にいる。
   山城博治さんだ。なぜこの人を自衛隊は助けない?

   自衛隊VS機動隊の戦いは見ものなんだがねえ。

 

 マララさんとは言うまでもなく、女性の学問を禁じたタリバン支配地域で、学校ごと武装勢力に襲撃され殺されかけた少女である。私の上記記事『誰がマララさんを守るのか』は、 “日本以外の先進国のほとんどがPKOから手を引こうとしている状況で、じゃあ誰がマララさん(のような状況の子供ら)を守るのか”という問いかけだった。自衛隊にできる事があるのじゃないかという提言だった。
 これに対するギター弾きさんの答えの一つがこれ。
 ちなみに山城博治氏とは沖縄の基地反対運動のリーダーである。
 

 自然科学の実験では、これまでの常識をくつがえすような実験結果が出た時、研究者がまずしなければいけないのは

 “やったー!世界的大発見だ”

 と叫ぶことではない。

 その実験の前提となった仮定・仮説が正しかったのか、実験の手法は正しかったのか、を検証することである。多くの場合はその仮説や実験のミスであって、世界的大発見は、そう簡単ではない。もちろん多くの研究者はそのことを承知している。

 こうした考え方は自然科学にかぎらず、人文科学・社会科学はもちろん、日常生活においても知っておくと論理的思考の助けになる。また人前で大恥理論を振りかざして後で後悔しないためにも役に立つと言える。

 

“なぜこの人を自衛隊は助けない?

自衛隊VS機動隊の戦いは見ものなんだがねえ”

 

 これはこれまでの常識をくつがえすようなモノスゴイ設定・状況である。

 基地反対派を自衛隊が助ける?自衛隊と機動隊が戦う?

 しかしこんな絶対にありえない状況が結論として導き出されたら、まずそこに導く前提がそもそも間違っていないかと検証するのが論理的思考というものだ。

 当然間違った前提にたどり着く。

“山城氏はマララさんのような人だ”である。

この検証をせずにギター弾きさんは

“やったー!すごい風刺の利いたジョークに辿り着いたぞ”と叫んだのだろう。

“こんな気の利いたジョークで戦争好きなこのブログ主や政権を退治してやるぞ”って。

 

 しかし正しい前提から導き出された突飛な結論はジョークになり得るが、これではもちろんジョークにも何もなっていない。もちろんどんな現実をも風刺していない。

 

 (もちろんジョークは多様である。敢えて突飛な状況を設定してその展開を笑う、というジョークもある。しかし“山城氏はマララさんのようだ”はどう見ても“敢えて突飛な状況を設定した”ものではなく、ギター弾きさんの“思考”そのものが突飛なだけである)

 

 一体どこでどうなって山城氏が“マララさんみたいな人”になったのかは私のような凡人には謎だが、こんな事を言われたら山城氏も腰を抜かすだろう。 拘置所内で( 2017.2.24現在)腰を抜かしたら普通以上に辛いだろうなあ。 

 

 護憲への思い・改憲派退治の思いばかりが先走って、こういう訳の分からない文章をブログに載せていると、思いがけない各方面に迷惑がかかるということか。

 

 

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 追記

 ギター弾きさんのコメントを紹介する。

 

 山城さんについては、「不当な弾圧を受けている者」という意味です。

 

 そりゃあどんな人間の間にも共通点はある。問題はその共通点が今この議題に則しているのかどうか、である。その議題に則して言えば、マララさんと山城氏は立場が決定的に異なる。

 ここでいう“マララさん”とは、“武装勢力などに襲われても彼女らを守るシステムが全く機能していない状態に置かれた子供達”のことだ。国家権力も警察も軍隊も彼女達を守ってくれない。武装民兵もいない。頼れるのは外国からの支援だけだ、と。

 一方山城氏といえばナンボ“反権力”を掲げこれと戦っていようと、一方で確実に国家権力に守られてもいる。座り込みの現場などで、例えば過激右翼が彼を殺そうと襲撃すれば警察は確実に彼を守る。もちろん国家権力そのものが彼を殺すことも絶対にない。

 そういう意味でマララさんとは正反対の位置に山城氏はいるのだ。

 

 例えば同じ“反体制の闘士”であっても、戦前の大杉栄氏とかは愛人伊藤野枝と子供と共にホントに国家権力に虐殺された。あるいは現代でも先日フィリピンでは反ドウテルテの女性国会議員が逮捕された。彼女の命は今相当やばい状態にあると私は思っている。ロシアなんかでも反プーチン派は常に生命の危険と隣り合わせだ。

 こういう例を取り上げて、“なぜ自衛隊は彼らを助けない”とか言うのなら、“蛮勇戦隊・自衛隊”というギター弾きさんの認識を共有する人達には、それなりに“風刺の効いたジョーク”ともなりうるだろう。

 そうすると続きは“自衛隊VSロシア軍やフィリピン軍の戦いは見ものなんだがねえ”となるわけか。更には時空を越えて“自衛隊VS旧日本軍の戦いは・・・”か。いや大杉栄を助けるんなら“自衛隊VS甘粕正彦率いる関東軍”かあ。ますます時空を超えちゃうなあ。

 

 もう一つギター弾きさんのコメント

 

 自衛隊は「断る」ことができるでしょうか?
 飛躍しますが、モデル志願者がAV出演強要されるとか、性暴力被害にあった女性が「合意だ」と言われているのと同じことが起きるのではないかと思います 。

 

 “断る”と言うのはPKO 派遣が決まった自衛官が派遣を断れるか、という意味だろう。一般企業や公務員と同様、移動や転勤を断ることは困難ではある。ただそれら一般人と同様、辞職する権利はある。彼らも国家権力の中で確実に人権が守られている。もちろん中途退職したからって違約金を払えとか言われないし、規定に従って退職金も支払われます。

 

 インテリとか社会的エリートとか護憲派の中にはおそらく“元自衛隊員”はあまりいないのでしょうね。

 でもそれ以外の社会空間には“元自衛隊員”がいっぱいいますよ。彼らはみんな自衛隊を退職した人達です。

 (もちろん記事中でも触れたように、一般企業と同様、個別の事例でそれなりのメンドウは伴うこともあるでしょうが。)

 つまり今PKO地に派遣されている自衛官は“辞められるけど辞めていない”人達です。

 

 一方 “モデル志願者”の例は“辞めたいのに辞められない”という問題ですよね。辞めたいと言うと“違約金払え”とか“カラダで払え”って脅される事例です。

 つまり自衛官と“モデル志願者”は正反対の立ち位置であることが分かります。 “マララさんと山城氏”と同様 ですね。

 相変わらずギター弾きさんの“喩え話”は突飛だなあ。

 

 “性暴力被害”の話もやはり論外です。PKO派遣の辞令が出ても考える時間はたっぷりある。その間に同意か辞退希望か辞職かを選べばいい。あれよあれよで被害者になってしまう性暴力とは事情も状況も全く違う。

 そういう過程を経てPKOに行って、後から“ホントは同意していない”とか言い出す自衛官がいたとしたら、喩えになるのは“性暴力被害者”なんかじゃなく、結婚式もあげ入籍もしたあと、結婚生活がうまく行かなかったからって“ホントはあの人とは結婚したくなかったんだ”とか言い出すコマッタちゃんでしょう。

 もちろんそういう、性格に障害のある人にも個別問題として優しい社会であってほしいとは思うけど、政策の決定とか社会システムの構築に、そういう人を基準に考えていたら何も決定できません。契約書も公文書も何の意味も持たなくなる。

 

 (“モデル志願者”の問題については、おそらくはギター弾きさん達の支援もあって、裁判に持ち込めば勝てる、という事例が出ていますね。“仕事を断った場合の違約金”について契約書に明記されていても、です。国家権力は彼女らの味方もしてくれてます。一つそういう判例が出れば裁判に持ち込まなくてもちゃんと主張する場さえ設定できれば、不当な強制もなくなるでしょう。

 もちろん全ての社会問題は全解決なんてのはなくて永遠にモグラたたきが続くのでしょう。だけどそのモグラたたきのためのハンマーは手に入れたということです。)

 

  余談

 

 ブログ上のギター弾きさんの文章は、批判の中身はない一方で、その文体・言葉の選択は私のような“改憲分子”への憎悪と軽蔑に満ちた超攻撃的なものである。

 ところが投稿コメントでは一般敬語が使われ内容にも節度がある。

 

 で、私は、 “プロレスのリングに引っ張りあげられた格闘家”のような気分になるのである。もちろん引っ張りあげたのはギター弾きさんである

 リング上(ブログ上)では凶器を使った反則攻撃で憎悪むき出しの流血戦を仕掛けてくる。

 がリングを降りると(投稿コメントでは)一般人に戻り、丁寧な言葉使いで、“明日の試合の打ち合わせ”を始める、みたいな。

 私としてはプロレスをするつもりはない。やるんだったらフェイクやハッタリ、ロープワークや空中殺法なしの、ルール順守の純粋格闘技戦である。

 

 前回、『護憲派はヒーローがお嫌い?』に続き、“ギター弾きさん”のこのブログへの批評 http://ameblo.jp/file9zyo/entry-12247388837.html について取り上げる。

 前回はPKO を始めとする国際貢献についてのギター弾きさんの考えを考察するものだった。

 今回はギター弾きさんの批評文について明確な反論を展開することになる。

 まず『自衛隊合憲論にはやっぱり無理がある』への批評について。

 

    ヒトの話聞いてないなあ

 

 私はこの記事内で世間の“自衛隊合憲論”の論拠の例を3つ挙げ、それらの“屁理屈”、じゃなかった“難解な解釈”は認めた上で、それらの“解釈”を憲法に付記してでも自衛隊の位置づけを憲法に明記しようじゃないか、と提案したのである。それによって不毛な憲法神学論争に終止符を打ち、立憲主義・法治国家をとりもどそうじゃないか、と。護憲派の中でも“自衛隊は容認する”派にとっては全く問題ないじゃないか、と。
 その上で私の知らない第4の“難解な解釈”があったとしても、その扱いは同様であって、それを付記して自衛隊の存在を憲法に明記しようじゃないか、と。

 この提案に“自衛隊容認・護憲”の立場から反論があるのであれば、“自衛隊の位置づけを憲法に明記してはならない理由”を述べるべきであるはずである。
 しかしギター弾きさんの反論は何と第4の“難解な解釈”の提示である。ヒトの話聞いてない。
 だーかーらー、そういう解釈を明記して、自衛隊を憲法に明確に位置づけしましょうよ、って。
それがいけない理由ってなんですか。中学生が読んでも外国人が読んでも普通に

“自衛隊は自衛のためにのみ軍事力を保持が認められているんだ。侵略戦争のための軍隊じゃないんだ”

 と認められる法文にする。この事に反対する理由って何ですか。 もちろん全ての法案、政策がそうであるように万人が納得する正解なんかありえないとしても。
 でもどんな文案であれ、現状の、一国の武力組織の位置づけがされていない憲法よりはマシであるはず。マシでさえないような改正案だったら(例えば自民の憲法草案丸呑み、みたいな)その時は私だって反対します。

 

    解釈改憲をめぐる同じ穴のムジナ達

 

 もう一つの問題は“解釈改憲”。すでに記事でも書いたが、護憲派は一貫して政権の“解釈改憲”を批判してきた。今もしている。しかし“解釈改憲”の歴史をたどれば、それは自衛隊(当時は警察予備隊)創設時の“自衛隊合憲論”に行き着く。もちろん当時護憲派は猛反対した。ところが今やギター弾きさんはこの“解釈改憲”を熱烈に養護し、旗を振っている。自分が認めた解釈改憲はいいが、政権のものはダメってことですか。

 政権も護憲派もこういう屁理屈・ご都合主義はもうやめましょうというのが私の主張なのです。が、双方とも自分の側だけは屁理屈じゃないと言いはる。

 私から見れば同じ穴のムジナ、です。

 

  次は『誰がマララさんを守るのか』についてのギター弾きさんの批評を検証

 

 控えめにしても、ほとんど一行ごとに反論しなければならない“突っ込みどころ満載”の批評文です。

 以下下線太字はギター弾きさんの文です。


   “スーダンに自衛隊を追いやる”

 

 もちろん一つのの政策について政治的批判をするのは自由です。 しかし自衛隊へのこういう言い回しはどういうことか。

 例えばあるシングルマザーにこんなことをいう人がいたとする。

 “まあ、母子家庭に追いやられたの。ひどい男がいるものねえ。”

 ここにギター弾きさんの上記の文を重ねてみる。()内は私の補足。

 “スーダンに自衛隊を追いやる。(ひどい政権があるものだ。)”

 見事に重なる。つまり“追いやる”とはそういう言葉だ。

 “追いやられた人”が誇りを持ってその選択をしたとか、誇りを持ってその選択を受け入れたとかいう視点がない。

 一見その人に同情を寄せているようでいて、その人は自主的判断などできない愚者であるとの蔑視を伴う、完全な上から目線である。

 シングルマザーは男に捨てられた馬鹿女に決まっているし、自衛官は国家に騙されて戦場で殺し・殺される馬鹿者に決まっている、という認識なのだ。

 誇りを持ってシングルマザーを選択した女性がいるとか、誇りを持って自衛官という仕事を選択し、PKOにも赴任する人間がいるなどというのは、完全に想像の外なのだ。

 9条派による“大衆蔑視”はしばしば指摘されるが、相手が自衛隊ともなるとその蔑視は極限に達するようだ。

 

(ところでスーダンは南スーダンとは別の国です。念のため。まさか“東日本”みたいにスーダン南部のことだと思ってたんじゃないでしょうね。)

    “マララさんを助けるために死んでこい”

 

 こんなこと一度も言ってない。こういう言ってないことを前提に話を進めるのは止めましょう。

    “行きたきゃ自分が行け”

 

 って、9条派の決まり文句はもう止めましょうや。それ言ったら障害者や子育て中の人や病人や年寄りは国家や社会について積極的な意見は一切言えなくなる。そういう社会的弱者はおとなしく、何でも自分でできる頑健な健常者のいうことに従っていればいいってことか。
“もっと保育所を” “だったら自分で作れ”
“原発なしで電気を” “だったら自分で作れ”
“ブラック企業無くせ” “だったら自分で作れ”
“おーい、火事だ、消防車はまだか” “だったら自分で消火しろ”

 

 私がそういう社会的弱者である可能性を考えたことありますか。何か社会的提言をして
“だったら自分でやれ”って言われたらもう何も言い返せないんですよ。ブログもたたんで“自分でなんでもやれる”能力のある人達だけで決定した社会で無言で生きてゆく。そういう社会がお望みですか。

 もちろん私がそういう社会的弱者ではなかろうと、この発言の持つ構造的差別意識に変わりはない。

 リベラルの私はそういう社会はゴメンです。

    “女はよく「世界を守りたいならまず自分の家庭を守れ」と言われる。”

 

 そうなんですか。私はそんなセリフ一度も言ったことないし、私の周りにもそんな人はいない。
まあギター弾きさんの周りではそういうことがよく言われるとして、ギター弾きさんはその主張に賛同してるのですか。自分が賛同した上で“自衛隊にもそれをいいたい”というのであれば、それはそれで理屈は通るけど、もし賛同してなくて自衛隊にはそれを求めるのならば“喩え話”として破綻してます。自分が言われたくないことをヒトに求めるな、という事でもある。
 ま、私はリベラルですから“女は家庭に”などという主張は全く賛同できませんが。

“男が戦場へ行っている間、家に敵兵士が来て、女たちが皆殺しされたなんていう話はよくあること。いいかげんに学習してほしいなあ。”

 すみません。以前私の記事で “私だって平均的日本人以上には戦争のこと知ってる”とか書いてしまったけど、こんな話が“よくある”ことはちっとも知りませんでした。いつのどの戦争の話なのかぜひ教えて下さい。学習します。
 もちろんここの場で学習すべきってことは“自衛隊の海外派遣”を考える上で参考になる時代・地域の話ですよね。ま、まさか近代以前の都市国家とか、古代や未開地域の部族間の戦争の話じゃないですよね。
 ただどっちにしろ、自衛隊員の総数22万人以上のうち、南スーダンに行っているのは350人程度ですから、その間に敵兵士が来て女達が皆殺しにされる心配はありませんから。

 そもそも私は記事中に明確に書いています。 “ 戦場のまっただ中に自衛隊を派遣すべきだとも思わない。”と。それなのに“男が戦場に行っている間”とかの話を持ち出す。また、私が言ってもいないことへの“反論”ですか。

  “女は男にそばにいてほしいんだがねえ。戦場になんか送りたくないんだよ。”

 ああそうですか。
でも男だって女にそばにいてほしい。戦場になんか送りたくない。どこの世界に自分のパートナーに戦場に行ってほしいと願う者がいるもんか。

 こういう問題を簡単に“女は”とか言っちゃうのがスゴイですね。なんか演歌の世界ですね。“女はいつもコレコレよ”とか“男はコレコレなのだ”とか。
 それから戦場に行くのは男、って決めつけてるのもどうかと思う。

 ギター弾きさんの、このへんの性別役割分担意識も私のリベラル感とは大きなズレがあるなあ。

 そもそも戦場に行く話はしてないってば。
 
自分のできる方法で「マララさんのような子」を助けることはあります。それをやっている人もいます。


 それぞれの人ができる範囲でできる事を、世のため人のため動くことはとても尊いと思います。
 でも、それぞれの人はそれぞれ能力や適性・経験がちっがっていて、だからできる事もそれぞれ違うということです。だからできる範囲で紛争地周辺の“マララさん”を助ける事ができる人や組織があって、それをやろうとしてるのに、それにケチを付けることはないでしょう。やっぱりみんな横並びがいいですか。

“ できないことはできない、で、いいと思います。”

 その通りです。できない人にやれだなんて一言も言ってません。また私が言っていないことへの反論ですか。
 日本の自衛隊は全員志願兵です。その中で特別の訓練を受けた人が任務としてPKO地に行く話をしているだけです。もちろん入隊後もいつでも辞められます。嫌な勤務地に決まることもあるだろうけど、どうしても嫌ならやめればいいのは一般の公務員とか勤め人と同様です。“そう簡単にはやめられない”のも“そんな辞め方したら再就職が難しい”のも一般人と同じです。もちろん危険さの度合いは違うけど “できないことはできないでいい”のはどんな仕事だって同じです。

“きっと、マララさんのために息子やマゴが死んだら、マララさん怨まれるよ。敵からよりも。


 そんな話は聞いたことないです。戦場であろうとなかろうと、ある人(達)の献身的行動で命を助けられた時、ヒトを助けて命を落とした人の親や祖父母が 命を救われたヒトの事を怨むなんて。実例があったら教えて下さい。
 新大久保の韓国人留学生の親だって、大災害で命を落とした消防団や広報課の職員の親族だって、みんな自分の息子・娘を誇りに思ってます。もちろん辛いし悲しいのはあたりまえだけど、助かった人を怨むなんて理解不能です。もちろん紛争地だって同様です。私自身、自分の息子とか娘ががそうやって死んだからって、助けられ生き延びたヒトを怨む気持ちになんか絶対にならない。生き延びた人には“息子・娘の分まで精一杯生きてくれ、幸せになってくれ”って願うだけです。

ネツトでも罵倒する人がたくさん出るだろう。


“ネットでも罵倒する人がたくさん出る”事に配慮して国の政策を決めるべきだって話ですか。理解不能です。

 そうなったらマララさんは「どうして自分が死ななかったのか」と悔やむよ。”

 これもそんな話は聞いたことがない。自分を助けてくれて命を落とした人には本人と遺族への申し訳ない気持ちと感謝と尊敬だけでしょう、普通。これもそんな実例があったら教えて下さい。まあネットで罵倒されたらどんな気持ちになってもフシギはないが。それはネットの書き込みが悪いのであって、PKOや自衛隊 のせいではない。
 あるいはその人がよほどドジふんで救助者を死に追い込んだのなら話は別だけど。

 
   マララさんのような人は世界中にいる。そのたびに自衛隊を出すのか?

 だからそんなことは言ってませんてば。またまた言っていないことへの反論だ。
一つの政策に基づきある行動が決定施行されたからって、いつでもどもでもその行動が施行されるなんてありえないでしょう。

 そもそも記事中にも私は

“ もちろん個々のPKO事例において自衛隊を派遣するかどうかは慎重にも慎重を重ねて事前の調査準備は必要でしょう”

とハッキリ書いている。言ってることを無視して言ってないことに反論するのはやめてくださいって。

 

   もはや第三次世界大戦ですよ。

 

 日本の自衛隊のPKO活動が発端に“第三次世界大戦”かあ。斬新なアイデアだなあ。

 ちなみにこれまで70近いPKO の現場で、局部的失敗や隊員による暴力事件・局地的戦闘はあったにしろ、PKO が発端となって戦争になったことなど一度もありません。

 

   マララさんのような人は日本にいる。
   山城博治さんだ。なぜこの人を自衛隊は助けない?

   自衛隊VS機動隊の戦いは見ものなんだがねえ。

 

 これについては前回も少し触れたが、あんまりケッサクなので次回一本の記事として取り上げます。『護憲派ブロガーGさんの仰天理論 “自衛隊と機動隊が戦う日”』参照

     

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    こんな不毛な反論を、それでも書いた理由

 

 ふー。この回の反論終わり。不毛な反論だなあ。論理的な文章は頭にスイスイ入るけど、矛盾だらけの文章は読むだけで疲れる。

 とにかくギター弾きさんの“批評”で目立つのが、私が言ってもいないことへの反論。そして明言したことを無視しての反論。喩えになっていない喩え話やよくわからない“歴史事実”とこれに基づく批判。で、これらを取り除くと何も残らない。一行たりとも“批評”と言える文など見当たらない。私から反論とかするレベルの文章じゃないんです。

 だから当初反論する気など全くなかった。それが、気が変わった理由が3つ。

 一つ目は私が何も反応しなかった為に私を“論破した”などと公言してるらしいこと。そりゃないでしょうって。

 二つ目はこういうモノスゴイ批評を私なりに分析して、公表する価値のある一定の分析結果を得たこと、です。

 三つ目は前回と次回のように、まあ一本の記事とするだけのエピソードもあったというところ。

 

   そもそもこんな批評がどうして書かれてしまうのか

 

 まず、どうしてこんな批評が書かれてしまうのか、実は私はよくわかっていて、以前このブログで書いた記事『話せばわかるか。9条派が脱9条論をはぐらかす7つの方法』ってのがあります。 で、ギター弾きさんは見事にこの7つの内、5つを使っている。つまり基本的には私の想定内の反応であるということ。(記事化可能な2つのエピソードだけは想定外だった。)

 

 その中でもギター弾きさんの批評で目立つのが“相手が言っていないことへの反論”。

 これについて解説しておこう。これこそが“公表する価値のある一定の分析結果”なんだけど。

 

    議論のスタートラインを間違えてしまっている

 

 今回はPKO がテーマだ。

 で、ギター弾きさん達にとっては

 PKO =戦場=戦争=徴兵制=“死んでこい”=絶対にあってはならない悪魔の仕業

 ってこれら6項目が全て=(イコール)でつながっている。普段の9条仲間たちとの会話ではみんなの共通認識だから、それはそれで差し支えない。

 ところが今回はPKO について異なる認識を持つ私が相手だ。相手は6項目はイコールではないと考えている事が出発点となる。つまりギター弾きさん側の議論の方向としては、私に対して、いかにこれらがイコールであるかを説明・証明しなければならない。せめてイコールではなくても6項目が“→”でつながる事を説明・証明する事が求められる。それが議論というものだ。

 そしてそれができれば私を“論破”したことになる。

 

 ところがギター弾きさんは仲間内との会話と全く同じ前提で“反論”を始めてしまった。

 だからテーマがPKO であればそれは戦場のことであり戦争であり、みんなに強制されることであり、“死んでこい”であり絶対にやってはいけないことなのだ。説明など不要である。私が“戦場には行くべきでない”と明言していてもお構いなしだ。だってギター弾きさん達にとってはPKOと戦場はイコールなんだから。イコールであるものを“違う”と言いはる私が“論理破綻”していることになってしまう。

 つまり私にとっては “自分がが言っていないことへの反論をするな”となるが、ギター弾きさんにとっては“相手が確かに言ったことへの反論”にちゃんとなっている。ご本人とてもマジメに反論しているのだ。

 しかしこれではマトモな“反論”には成り得ないし、もちろん議論など成立しない。“論破した”など論外である。

 どんなにマジメに反論してたって、議論のスタートラインを間違えてしまっているのだもの。

 

   ギター弾きさんへ

 

 さて、こういう議論モドキに私が付き合う事はもうありません。こんな丁寧な“不毛な反論”も今回限りです。ただギター弾きさんが今後もリブログして私の記事を紹介してくれるのは歓迎します。そこで私の記事を仲間内だけの論理でこき下ろすのも“論破する”のもご自由に続けてください。ともあれ護憲の読者の目に“脱9条のススメ”が触れるのはありがたいので。

 

 初めてギター弾きさんが私のブログをリブログしてくれた頃は、批判はしつつも“読む価値のあるモノ”としてかなり好意的に紹介してくれたものだ。そもそも護憲でありながら“脱9条のススメ”に目を留めてくれただけで柔軟な発想であることが伺われたし。

 “戦争は損をする”“そのことが抑止力となる”とか共通の認識もあった。この方とは建設的な議論・意見交換ができるのではないか、とかなり期待したものである。もちろん私の側の事実認識の誤りや論理の矛盾が指摘されればいくらでも修正・撤回する用意もあった。

 

 しかしダメだったなあ。やはり私が『話せばわかるか・・・』で指摘した“脱9条論自動拒絶装置”がギター弾きさんの中で作動してしまったのだろうなあ。残念です。初めは装置が故障してたのかなあ。

 いつかまた“装置”が作動をやめた時が来たら、ちゃんとした議論・意見交換ができる事を楽しみにしてます。その時はコメント欄からでも連絡ください。

 

ま、私の場合、装置の作動を止めてから、脱9条にたどり着くまで十年以上かかったが・・・。

 

 ところで、ギター弾きさんが主役の今回の記事はリブログしてもらえるのだろうか。無理だろうなあ。

 

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 追記

 

 なんとギター弾きさんは今回の記事もリブログしてくれた。その心意気と真面目さには敬意を表したい。

 ただその中身といえば冒頭から相変わらずの“私が言っていない事への反論、私が言った事を無視しての反論”であった。何も変わっていない。そこでこれ以上読むのはやめた。こういう文章にこれ以上関わる理由はないからです。もちろんすでに述べたようにその一つ一つに丁寧に反論することもありません。

 興味のある方はご自分で検証してみてください。このネット時代、何でも自分で検証するのが一番であります。

 

 すでに『9条守れ運動のポピュリズム度を検定する』でも述べたように、こういう方達との議論は成立しないのは私の分析通りではあります。

 また リブログ前にはコメント欄でも短いやりとりがあったのですが、この間、私が

『9条派が脱9条論をはぐらかす7つの方法”』で指摘した7つも全てをクリアしてしまいました。

 でもいくら私の分析が実証されたからって嬉しくなんかありません。こんな分析ハズレて、ちゃんとした議論ができる事をホントに願ってましたから。

 とにかくこれでは議論の続行は不可能だし無意味です。

 

 私の側にももちろん反省点はあります。日本の議論にありがちな“感情をただぶつけあう”ようなものにしないため、極力論理的な文章を心がけてきました。ただそのことがより一層相手を追いつめ、傷つけ怒らせてしまうことがあるのですね。相手は人格そのものを否定されたと思ってしまう。振り返ってみると私の人生では度々おかしてきたミスでした。

(特に次回の『護憲派ブロガーGさんの仰天理論 “自衛隊と機動隊が戦う日”』が悪かったようです。私としては会心の論理的文章に仕上げたつもりだったのですが、その分最悪の“人格否定”ととられたようです。)

 一時は一部“謝罪や撤回”まで表明していたギター弾きさんをムダに固まらせてしまったのは

私の人徳のなさであると言わざるを得ません。

 

 まあ私に“人徳”など似合わないので、これからも事実を見つめ論理を追求してゆくしかありませんが。

 

 





 

    PKO論はあくまで政策選択の問題である、という前提で

 

 私の“脱9条のススメ”を時々リブログしてくれる

 『AC・DV・虐待・性暴力撲滅・戦争と平和図書館』というブログ(護憲派)がある。

改めてお礼申し上げる。特に護憲の方にこそ読んでいただきたいものだからである。リブログには毎回主催者である『ギター弾き。カルト・DV・性暴力被害者・ACの水飲み場』さん(以下『ギター弾きさん』と略す)の批評批判も添えられている。今回は以下の批評

http://ameblo.jp/file9zyo/entry-12247388837.html
から一部、私のブログ記事として馴染むテーマを取り上げることにする。

 この批評は“脱9条のススメ”のうち 『自衛隊合憲論にはやっぱり無理がある』についてだが、この中でギター弾きさんは 『誰がマララさんを守るのか』 についてもとりあげている。
 ここではギター弾きさんの批評のこの部分について思うところを書いてゆく。

 

 ここで取り上げたのはPKOを始めとする“日本の国際貢献のあり方”についてである。この問題は記事中でも述べたように、あくまで政策選択の問題であって、マララさんを助けに世界の果てまで行くことが正しくて、そうしないのは誤りであるなどと言うつもりはない。

 その上で感想を述べることにする。

 

   逃げるは恥だが役に立つ

 

 例えば子ども世界での“イジメ”について、教師たちおとなは簡単に“イジメを見たら止めなさい”、と言う。正しい。正しいけど、下手に止めに入ればトバッチリをくったり、下手すりゃ自分がいじめの標的になる。そういう意味で“見て見ぬふり”をするのも一つの世渡り術である。

 “逃げるは恥だが役に立つ”というやつだ。

 ただそれは認めた上で、それでもイジメを止めに入る子は大いに褒め称えてやりたい。

 まさに子ども社会における英雄的行動である。

 自分の子もそうであってほしいと願う。

 

 私にとってはPKOもこのイジメへの対応と同じである。簡単に“自衛隊はマララさんを助けに行け”などと言える問題ではない。下手に行けばトバッチリをくったり、戦闘に巻き込まれたり、  自衛隊員が命を落とすことも充分有り得る。そういう意味で“9条を盾に”見て見ぬふりをするのも国際社会の世渡り術である。

 “逃げるは恥だが役に立つ”だ。

 ただそれは認めた上で、日本にとって他の選択肢もあるだろうということだ。

 

   護憲派はヒーローがお嫌い?


 ギター弾きさんはヒーローがお嫌いなようである。その行動の中身は一切問わず、ヒーローになろうとすることを“蛮勇”と切り捨てる。
 いやその感覚は日本社会全体に浸透していて、まあ特に“9条派”にそれが著しい。と、まあこれは私の決めつけだけど。

 2011年のサッカー・・オリンピック予選・対オーストラリア戦で、途中出場したFW李忠成が見事なダイレクトボレーで決勝ゴールを決めた。試合直後の李のコメントは “自分が決めてヒーローになるんだと思いながらベンチにいた”というものだった。
 ところが翌日の朝日新聞の記事では李のコメントは “自分がラッキーボーイになるんだと思いながらベンチにいた”である。これはもう今流行の“ファクト”の捏造である。朝日はそこまでヒーローになろうとする思いを嫌うか。まあ在日外国人出身の李が日本社会で“ヒーローになる”だなんて“間違った思い”を持ったことを伝えてはいけない、というゆがんだ“思いやり”なのかもしれんが。

 

    人はその行動によって、時にヒーローになる


 ギター弾きさんは“自衛隊や災害救助隊は映画のヒーローではない”という。その通りである。一つの組織そのもの、あるいはその一員になったからってヒーローになどなれるわけがない。自衛隊はヒーロー戦隊ではないのである。
 だが人はその所属の如何にかかわらず、その行動によって時にヒーローになる。
 ここ数年多発する大災害の度に地元の消防団員たちが身を挺して市民の命を守ろうとする。あるいは記事でも触れたように役所の広報担当職員が同様の行動をする。また以前東京山手線新大久保のホームで、転落した人を救おうと韓国人留学生が線路に飛び降り人命を救った。が留学生は逃げ遅れ命を落とした。
 私から見れば彼らは間違いなくヒーローでありヒロインである。蛮勇なんかじゃない。そしてその行動ゆえ時に自らの命を落とす。別に市民の命を守るために“死んでこい”と言われたわけでもない。
 そうしたヒーロー・ヒロイン達にはただただ感謝と尊敬しかない。私は。

 

     “映画のヒーロ”ーって実際はどんなだろう


 “自衛隊は”“映画のヒーローではない”ってギター弾きさんは言う。ギター弾きさんにとって“映画のヒーロー”ってどんなイメージなんだろう。
 文脈から見るにおそらくは悪い怪獣や世界征服を企む悪の結社をやっつける、いわゆるヒーローモノのヒーローとか、ランボーみたいな外国の悪い勢力をやっつけに戦争に行く連中のことなんだろう。そういう映画ももちろんある。
 だがヒーローを扱った映画はそんなのだけではない。
 大統領の陰謀を暴いたジャーナリストだって映画のヒーローだし、過酷な労働環境で組合を作り戦い権利を勝ち取ったたヒーローも映画で描かれている。ジュリア・ロバーツ主演『エリン・ブロコビッチ』では 無学・無資格・無教養の主人公が弁護士事務所の一職員として、環境汚染の被害者一人一人を訪ね発掘し、大企業相手の裁判に勝利する。主人公は被害者に莫大な賠償金を勝ち取り、一躍社会のヒロインとなる。

 どれも実話を元にした一般商業映画である。
 『エリン・ブロコビッチ』なんか、水俣病事件で患者を一人一人を掘り起こし、社会に告発し、裁判に勝利した後も一生患者に寄り添い、未認定患者救済の戦いを続けた 故・川本輝夫氏の姿ソノモノである。

(エリンは賠償金から莫大な報酬を得たが、川本氏は患者としての自分の僅かな賠償金も患者運動につぎ込んでしまった、という違いはあるが。また川本氏は無教養でもない。)

 だが日本では川本氏を主人公とした映画なんか企画すらされない。

 

 米国においては映画にかぎらず、これがヒーローの姿である。キング牧師だってムハメド・アリだって、大戦中の日系人捕虜の扱いの不当さを訴え続けたフレッド・コレマツ氏もみんなヒーローだ。コレマツ氏は日本人が思っている以上に米国内でよく知られ、特にトランプの登場で民族間の分断があからさまになった今、改めてその業績が再認識再評価されているという。
 そういう意味ではギター弾きさんオススメの山城博治氏だって基地反対派にとってのヒーローというべきだろう。

 (え、山城氏が“日本のマララさん”だって?意味不明。“マララさん”として象徴されるのは学校に行っただけで殺されたり殺されかけたりするような紛争地の子供達だ。警察にも法律にも守られないで日々怯えて暮らす子どもたちだ。山城氏に“あなたは日本のマララさんですね”って言ったらびっくりするだろうなあ)

 

    ヒーローを尊ぶ社会・横並びを尊ぶ社会


 数年前に話題になった“国民性ジョーク”でこんなのがあった。
 沈みかけた船で、船長は乗客に海に飛び込む決断を迫る。
 米国人には “飛び込めば英雄になれますよ。”
 日本人には “みんな飛び込んでますよ。”

 まあ確かに先ほど取り上げた映画など、全てハリウッド製である。そういう世界一“英雄好き”な国民と、世界一“横並び好き”な国民を比べてもしょうがないかもしれない。
 英雄を待望してばかりで個々人が何もしない社会はもちろん不幸である。
 しかし前例のない何かをなそうとし、あるいは英雄にならんとする者へ“蛮勇”などと罵声を浴びせ足を引っ張る社会も同様に不幸であると言わざるをえない。
 
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 ギター弾きさんのこのブログへの批評についてはあと2回取り上げます。

 次回からは今回のような“考察”ではなく、明確な“反論”の開始です。 

 『私が言ってもいないことに反論して“論破した”と言われてもなあ。私からの反論です』

 『護憲派ブロガー・ギター弾きさんの仰天理論 “自衛隊と機動隊が戦う日”』

 

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 追記・ギター弾きさんからコメントを頂いたのでここで紹介する。

 

 【この場合、ヒーローとは、広義のヒーローでなく、「正義戦隊」の狭義の方で申しております。
が、例に出された方たちも「自分のできること」を追及していった人だと思います。それぞれの立場でできることを。自分の力以上のことができたのは結果論です。

 

 私のコメント

 

 そりゃあヒーローってのは結果論ですよ。一人のヒーローの陰にはヒーローになりそこねた“失敗者”がゴマンといる。一人の金メダリストの陰にはメダルも穫れない、オリンピックにもでられなかった競技者がゴマンといるのと同じ。下手すりゃそれで人生棒に振ってしまった人だっていっぱいいるわけ。それでもチャレンジする中からヒーローが誕生する。

“成功を約束されたヒーロー”なんて言葉として自己矛盾してる。

“それはあなたの力量を超えている。どうせ失敗するからやめなさい”、ってたしなめるのがヒーロー嫌いの論理です。

 

 一方では“広報課の女性職員”とか“新大久保の韓国人留学生”とかみたいにその時その場に“たまたま”いたために、その人の持っていた人間力が発揮されて“ヒーロー・ヒロイン”になってしまった場合もある

 彼らの遺族から見ればヒーローになんかならなくてもいいから平凡に生き続けて欲しかったろうに。これもまた“結果論”である。

 

 福島原発事故の後、現場に残り作業を続けた技術者・作業員を欧米のメディアは彼らを“ヒーロー”と呼んで称えた。彼らとてまさか原発に勤務することで“ヒーロー扱い”される日が来るなんて思っても見なかったろう。ここにも“結果論”の世界がある。

 ただ日本社会が彼らを“ヒーロー”とみなす論調は見られなかった。どちらかと言えば“現場に追いやられた”とする見方が強かったのではないか。あるいは“日本社会における仕事への忠誠心”か。ここにも“ヒーロー”をめぐる日本と欧米の認識の違いが見られるのかもしれない。単に“放射能に対する危機感の差”かもしれないが。