特定秘密保護法というものの趣旨には私は基本的には反対ではない。
ただ今回の法案の中身はヒドすぎる。
第三者機関と言っても首相への助言機関だったり、秘密の期限が60年、しかも例外だらけ等、とてもじゃないが文明国の法律とは言えないものである。
よって、この法案にはダンコ反対であることはまず表明しておく。
だがそれはそれとして、同じく反対を表明している9条派の学者・文化人・一般市民等による、
“秘密保護法は戦争への道”
とかいう発言を聞くと、ずっこけてしまうのである。
、
“日本がかつてのように単独で戦争を仕掛ける”とかになると、これはもう今の日本にヨソに戦争を仕掛ける必要なんて全くないし、まかりまちがって政府なり、国民なりがトチ狂って戦争始めようとしたって、そんな事できっこないのだ。(変な主張・15 参照)
“アメリカに追従して戦争をする”ことに関しては秘密保護法が無かろうと、9条があろうとイラク戦争において、しっかり追従して戦争に直接加担してしまった事はまず確認しておきたい。
そのうえで、今回のような法案が、議事録もロクに残さない国家安全保障会議とともに施行されれば、今まで以上に“アメリカに追従して戦争をする”可能性は大きくなると言わざるを得ない。
逆に言えば、イラク戦争の失敗を活かし、アメリカからだけの情報に頼らず、かつ収集された情報を元に誰がどのような判断をし一つの決定に至ったのかが後世に検証できるような秘密保護法であり国家安全保障会議であれば、“アメリカに追従して戦争をする”ような事は回避できるということである。
9条派の皆さんが大嫌いな戦争を避けるためにこそ、適正な情報収集とその分析・判断、そして最善の決定のための秘密保護法と国家安全保障会議は、私は必要であると考える。
そしてそういう“国家の平和”という大目的のためにであれば“国民の知る権利”もある期間ある範囲で制限されるのもやむを得ないと考えるのである。
しかし今回の法案を見る限りこれは“国家の平和”に反するものであり、その上“国民の知る権利”を制限するものであるといえる。
”百害あって一利なし、と言わざるをえない。
たとえば、かつて私の娘が通っていた高校では,校則によってケータイ電話の校内持ち込みは禁止されていた。ところが当然の事ながら生徒たちは皆ケータイを持ち込み、トイレ等で使っていたという。ここまではいい。いつの時代どこでも見られる生徒と校則の関係であると言えるだろう。
モンダイはこの先である。多くの部活動において、顧問の先生とキャプテン・部員との連絡にフツウにケータイによるメールが使われていたというのだ。もちろん校内で、である。
こうなるともう、この高校では“携帯電話の校内持ち込みは禁止”などという校則は実質存在していない、というべきであろう。いくら文面として、生徒手帳に明記されていても、である。
(さすがに数年後には“放課後までは校内使用禁止”だかに改められたそうである。当然であり、また、健全な法感覚であると言えるだろう。)
さて憲法9条である。ご存知のように、第2項には“陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない”と明記されている。にも関わらず、日本には自衛隊という名において陸海空軍その他の戦力を保持しているのもご存知のとおりである。既に60年以上もこの状態にあるのは、もはや違憲状態だの憲法解釈がどうのだの言う状態を完全に超えている。
もはや憲法9条などこの日本には存在していない、というべきだろう。
たとえ文面として存在していても、実質“法”として存在していない。
この国の法として日本語におけるそのままの意味においてなんら機能していない。
(というとすぐに“いやそれでも武力行使へのハドメになっているのだ”という“ハドメ理論” を持ち出す人がいるのだが、これについてはこのブログの別の記事を参照していただきたい。)
“ケータイの校則と国の法律を並べたってしょうがないだろう。”という反論もあるかも知れない。
が、国の法律においても同じ例はある。
かつて食糧管理法という法律があって、これは戦前戦後の食糧難の時代に米を公平にに配給するために定められたものである。
各家庭に“米穀通帳”が配られ、これがなければ米は買えない、外食においても米は食えないと食管法で定められていた。
が、戦後の復興と共に食糧の増産が進み、米穀通帳はいつの間にか使われなくなっていった。
おそくとも1960年代には日本中どこでも米穀通帳ナシで米は買える時代になっていたハズなのだが、食管法は廃止されず、日本中のヒトが食糧管理法違反を犯していたことになる。70年代の調査では政府の閣僚ですら米穀通帳を使っていたのは一人だけだったという。
もちろんこの間逮捕者が出ることもなく、まさにこの頃食糧管理法は“法の文面”としては存在していたが、実質存在していなかったということだ。
さすがにこれではマズイであろうということで、1981年食糧管理法は何の異論もなく改正された。現状を法律が追認したということである。当然国民生活には何の変化もなかった。ただ法治国家としてのスジを通したということだ。
さてあらためて9条である。いまや護憲派と言ってもかつてのように“非武装中立”などというのはごく少数で、自衛隊の存在は認めるのが多数派となっている。
だから憲法9条にしろ、このような現状を追認して改正されればいいだけのハナシである。現状を追認するということは、食管法改正の時と同様、国民生活にも国家のあり方にも何ら変化はないということだ。法治国家としてのスジを通すべきであるというアタリマエの話をしているだけである。
こういうアタリマエの話が通らないのは、護憲派の皆さんにとって、9条が食糧管理法などの一般の法律とは全く異なるものであるということだ。彼らにとって憲法9条は、法律などという俗世間のもの、一般人が勝手に変えたりしてよいものではなく、神聖なる経典であるのだ。
世界中どこの一神教の信者も自らの神を汚されるのは許せないし、その経典の異教徒による“改正”なんか認めるわけがない。
日本における9条改正モンダイとは実は政治問題と言うよりは宗教問題であり、彼らにとっては宗教弾圧問題であると考えたほうが良い。
モンダイはこの先である。多くの部活動において、顧問の先生とキャプテン・部員との連絡にフツウにケータイによるメールが使われていたというのだ。もちろん校内で、である。
こうなるともう、この高校では“携帯電話の校内持ち込みは禁止”などという校則は実質存在していない、というべきであろう。いくら文面として、生徒手帳に明記されていても、である。
(さすがに数年後には“放課後までは校内使用禁止”だかに改められたそうである。当然であり、また、健全な法感覚であると言えるだろう。)
さて憲法9条である。ご存知のように、第2項には“陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない”と明記されている。にも関わらず、日本には自衛隊という名において陸海空軍その他の戦力を保持しているのもご存知のとおりである。既に60年以上もこの状態にあるのは、もはや違憲状態だの憲法解釈がどうのだの言う状態を完全に超えている。
もはや憲法9条などこの日本には存在していない、というべきだろう。
たとえ文面として存在していても、実質“法”として存在していない。
この国の法として日本語におけるそのままの意味においてなんら機能していない。
(というとすぐに“いやそれでも武力行使へのハドメになっているのだ”という“ハドメ理論” を持ち出す人がいるのだが、これについてはこのブログの別の記事を参照していただきたい。)
が、国の法律においても同じ例はある。
かつて食糧管理法という法律があって、これは戦前戦後の食糧難の時代に米を公平にに配給するために定められたものである。
各家庭に“米穀通帳”が配られ、これがなければ米は買えない、外食においても米は食えないと食管法で定められていた。
が、戦後の復興と共に食糧の増産が進み、米穀通帳はいつの間にか使われなくなっていった。
おそくとも1960年代には日本中どこでも米穀通帳ナシで米は買える時代になっていたハズなのだが、食管法は廃止されず、日本中のヒトが食糧管理法違反を犯していたことになる。70年代の調査では政府の閣僚ですら米穀通帳を使っていたのは一人だけだったという。
もちろんこの間逮捕者が出ることもなく、まさにこの頃食糧管理法は“法の文面”としては存在していたが、実質存在していなかったということだ。
さすがにこれではマズイであろうということで、1981年食糧管理法は何の異論もなく改正された。現状を法律が追認したということである。当然国民生活には何の変化もなかった。ただ法治国家としてのスジを通したということだ。
さてあらためて9条である。いまや護憲派と言ってもかつてのように“非武装中立”などというのはごく少数で、自衛隊の存在は認めるのが多数派となっている。
だから憲法9条にしろ、このような現状を追認して改正されればいいだけのハナシである。現状を追認するということは、食管法改正の時と同様、国民生活にも国家のあり方にも何ら変化はないということだ。法治国家としてのスジを通すべきであるというアタリマエの話をしているだけである。
こういうアタリマエの話が通らないのは、護憲派の皆さんにとって、9条が食糧管理法などの一般の法律とは全く異なるものであるということだ。彼らにとって憲法9条は、法律などという俗世間のもの、一般人が勝手に変えたりしてよいものではなく、神聖なる経典であるのだ。
世界中どこの一神教の信者も自らの神を汚されるのは許せないし、その経典の異教徒による“改正”なんか認めるわけがない。
日本における9条改正モンダイとは実は政治問題と言うよりは宗教問題であり、彼らにとっては宗教弾圧問題であると考えたほうが良い。
いや、今だにこういうことをいう人がいるのですね。こういうヒトはもうこの世にはいないと思っていたもんだから、このブログのメイン記事である“9条人の変な主張20”にも入れなかったのです。が、先日こういう主張を聞いたものだから答えることにします。
“農業なんて農民が儲けるためにあるのだ、”とか
“医療なんて医者や看護師や病院スタッフが儲けるためにあるのだ、”とか
“インターネットなんてネット業界が儲けるためにあるのだ”とか
“家電製品なんて家電業界が儲けるためにあるのだ”とか
こんな事をいくら並べたところで、なんの意味もないでしょう。
その通り!でもあるけど、一方で社会にその“商品”の需要が無ければ“儲ける”ことだって出来ないし、そうした社会の需要に応える商品は社会に貢献しているということでもあります。
今や実質、世界中が市場経済の中にあるわけで、“商品”であることでそのモノやらサービスやらを批判したところで何の意味も無いということです。
軍需産業にしたところが、そこに需要があるから産業として成り立ち、社会に貢献し、儲けも成立する、それだけのことです。
もちろん、そこに需要がなければ、無理にでも需要を創りだそうとするのも、他の全ての産業と同様であり、それらの商行為において違法性があれば当然取り締まれなければならないのも他の産業と同様であリます。
ムカシ、まだ多くの人が社会主義の正義を信じていた頃は、映画や演劇といった芸術作品の批評でも
“あれは商業映画だ、商業演劇だ”
と決めつけてしまえば、それでオシマイ、存在価値ゼロ、いやこの世にあってはいけないもの、などという時代があったものです。
が、さすがに今どきそんな価値観をもってしては批評などとは認められません。
“計画経済”などでは人々は決して豊かにも幸せにもなれないことは歴史によって証明されてしまったのですから。
ところが今だ一部の9条業界ではこうした“商品=悪”という図式が通用するということでしょうか。
世界の何処かに商品とか貨幣とか言う“邪悪”なものが存在しない“地上の楽園”があると信じているのでしょうか。
(戦争をすると軍需産業が儲かるだなんて池上彰さん、間違ってるよ ・ではこのテーマを世界経済、新興国の出現、中国の爆買い等の問題と絡めて、さらに掘り下げます。
“農業なんて農民が儲けるためにあるのだ、”とか
“医療なんて医者や看護師や病院スタッフが儲けるためにあるのだ、”とか
“インターネットなんてネット業界が儲けるためにあるのだ”とか
“家電製品なんて家電業界が儲けるためにあるのだ”とか
こんな事をいくら並べたところで、なんの意味もないでしょう。
その通り!でもあるけど、一方で社会にその“商品”の需要が無ければ“儲ける”ことだって出来ないし、そうした社会の需要に応える商品は社会に貢献しているということでもあります。
今や実質、世界中が市場経済の中にあるわけで、“商品”であることでそのモノやらサービスやらを批判したところで何の意味も無いということです。
軍需産業にしたところが、そこに需要があるから産業として成り立ち、社会に貢献し、儲けも成立する、それだけのことです。
もちろん、そこに需要がなければ、無理にでも需要を創りだそうとするのも、他の全ての産業と同様であり、それらの商行為において違法性があれば当然取り締まれなければならないのも他の産業と同様であリます。
ムカシ、まだ多くの人が社会主義の正義を信じていた頃は、映画や演劇といった芸術作品の批評でも
“あれは商業映画だ、商業演劇だ”
と決めつけてしまえば、それでオシマイ、存在価値ゼロ、いやこの世にあってはいけないもの、などという時代があったものです。
が、さすがに今どきそんな価値観をもってしては批評などとは認められません。
“計画経済”などでは人々は決して豊かにも幸せにもなれないことは歴史によって証明されてしまったのですから。
ところが今だ一部の9条業界ではこうした“商品=悪”という図式が通用するということでしょうか。
世界の何処かに商品とか貨幣とか言う“邪悪”なものが存在しない“地上の楽園”があると信じているのでしょうか。
(戦争をすると軍需産業が儲かるだなんて池上彰さん、間違ってるよ ・ではこのテーマを世界経済、新興国の出現、中国の爆買い等の問題と絡めて、さらに掘り下げます。