脱9条のススメ    護憲・リベラルのための憲法9条講座 -15ページ目

脱9条のススメ    護憲・リベラルのための憲法9条講座

かつてガチガチの9条平和主義者だった私がその大矛盾に気づいてしまいました。
様々なテーマでリベラルの視点から、具体的・論理的に脱9条論を展開します。

 たとえばここでの“脱9条論”など、具体的事実を元にアタリマエのリクツで書かれていて, 中学生程度の読解力があればフツウに理解し納得できるハズのものである。

 しかし世の9条人(びと)の目に触れた途端、この“脱9条論”は難解でワケの分からないモノと化してしまうようだ。
なぜなら、“脱9条”などという言葉を目にした途端、彼らのアタマの中に標準装備されている“脱9条論自動拒絶装置”が作動するからだ。そして9条に反する一切の情報が遮断され、頭脳による理解活動は停止してしまうのである。

 理解活動が停止する一方で、彼らの頭脳のもう半分は猛烈なスピードで回転を始める。
“このキケンな反9条分子に反撃しなければいけない。
なぜなら9条をけなす人間など、平和の敵であり、人類の敵であり、すなわち悪魔の手下であるのだ。”
というわけである。

 しかしこの“脱9条論”にマトモに反論できる具体的事実もそれに基づく理論も彼らは持ち合わせていない。
 “でも反撃はしなくては行けない。この世を悪魔の手に売り渡すわけには行かない。”
 で、どうするかといえば以下の7つの方法をもって、彼らは“反撃”したつもりになるのである。

1.“脱9条論”の中身にはふれず、こちらが言ってもいないことを取り上げ、これに反論する。
 
 “じゃあ、戦争してもいいっていうのか”とか、(そんなことは言ってない)
 “じゃあ、自民党の憲法草案がいいっていうのか”とか、(そんなことも言っていない)
 “じゃあ、沖縄の米軍基地は今のままでいいって言うのか”とか、(そんなことも言ってない)

2.中身にはふれず、とにかくケチをつける。

 “誰かのウケウリだ”とか、“アトズケだ”とか、“極論だ”とか、“誤字脱字が多い”とか。
 “そんなに戦争がしたければあなたがまず戦場に行け”とか。

3,中身にはふれず、ただレッテルを貼り付けて反論したつもりになる。

 “軍国主義者だ”、とか、“右翼だ”、とか、“歴史を知らない愚か者だ”、とか、“戦争好きの血が騒ぐのを押 さえられないマッチョだ”とか。“権力者に騙される愚かな庶民だ”とか。

4.話をそらす。

例えば9条人が9条の理念の素晴らしさを説く。これにこちらが反論すると、それには答えず、“戦争は戦争屋が儲けるためにあるのだ”などと始める。これに反論するとこれには答えず、“テロと戦う国を支援する”という安倍晋三の姿勢を批判する。これに反論すると“日本の対米追従が”などと始める。これに反論すると、“軍隊無しで平和を維持している国はたくさんある”などと始める。これに反論すると・・・。
と、とにかくこちらの反論には一切答えず、次々と新しい“お題”を出して議論から逃げまくるのである。もちろん本人にその自覚はない。

5.中身にはふれず、ただただ情に訴える。

 “私にはそういうムズカシイ理屈は良くわからない。でも9条の素晴らしさは理解できるわ。
 だって人間とか世の中ってそういうリクツで動いてるわけじゃないでしょう?
 愛があるから人間は生きていけるんでしょう?
 戦争は人の愛を根本から破壊するものなのよ。
 その戦争をダンコ拒否した憲法9条の素晴らしさ、かけがえのなさが、どうしてあなたにはわからないの?”とか。

6.戦争の悲惨さの話を始める。

キミは前の戦争でどれだけの犠牲があったか知らないようだね。日本人アジア人合わせて数千万の罪のない人が戦争で死んでいったのだよ。最近のイラク戦争だってイラクの民間人50万以上が米国を始めとする有志連合に殺されている。いや有志連合の死者五千人だって好きで死んでいったわけじゃない。国家権力の犠牲になったのだ。9条を変えてあんな戦争をまた繰り返そうというのかね。
とか。

7.そして終いには9条派の学者文化人の著書とか差し出して
“あなたもこれを読んでもっと戦争の歴史について勉強しなさい”とか言うのである。

ちなみに断固たる9条人であった十数年前の私といえばこれら1~6を駆使して相手をボロクソに言って、反撃反論した気になって勝ち誇っていたもんでした。あー恥ずかし。

 結局、どんなに具体的事実に基づいた論理的な“脱9条論”を述べたところで、この“脱9条論自動拒絶装置”が作動してしまっては、9条人を目覚めさせる事はできないのですね。
 だからまず考えなくてはいけないのは、“具体的事実にもとずいた論理的な脱9条論”などではなく、この拒絶装置を停止させる方法なのでしょう。
 
2013.7月

 自民党大勝で終わった参議院選の結果を受け、各メディアはリベラル勢力の衰退を伝えている。リベラル系のメディアや言論人はこれを嘆き、リベラル系の政治家はリベラルの結集を呼びかけたりしている。
 が、これらで使われる“リベラル”とはあいも変わらず“護憲派”つまりは“軍事力否定派”のことである。もちろん世界中のリベラルを見まわしてみてもこんなリベラルは日本だけである。
 (もちろん各国の歴史と社会の事情は異なり、リベラルの定義も少しずつは違うにしろ)

 オバマだってオランドだってリベラルだけど、アメリカもフランスももちろん軍事力を持ち、核兵器だって持っている。だからって彼らをニセリベラル呼ばわりするひとはアメリカにもフランスにも世界中探したってどこにもいない。
 
 日本でだけは“護憲=軍事力否定”がリベラルであることの必須条件とされる。
 
本来世界共通の政治用語である“リベラル”が日本でだけイビツで独特の進化を遂げてきた姿はまさにガラパゴスリベラルと呼ぶにふさわしい。(ガラリべ?)


 今回の参院選の結果をキッカケにもう日本でも“リベラル”の再定義をしてはどうか。 だって実際にどんな理想のリベラル社会を実現したって、その社会の安全と独立を維持するには軍事力は必要だって、実はみんな気づいているんだから。護憲派の皆さんだってついこの間まで“非武装中立”とか言って、自衛隊の存在すら認めていなかったのに、今じゃほとんどは“専守防衛”とか言って自衛隊も、“自衛のためのやむをえない武力行使”も認めているのが現状だ。“転向宣言”もなしに。
 
 そういう自分自身の姿も見えずにあいも変わらず“9条、9条”ってユートピアだかおとぎの国だかを本気で目指している人達に現実の政治などとても任せられないと言うのが、今回の“リベラル惨敗”の原因の一つではあるはずだ。

 ちなみに私はといえば、リベラル・脱9条・脱原発、です。

2016.12月

その後もあらゆる選挙で“自称リベラル”は惨敗を続け、もはや日本の“リベラル”は絶滅危惧種となった。健全な民主社会に真のリベラル勢力は絶対に必要である。どこの先進国だってリベラルと保守が政権交代を繰り返し健全な発展を遂げているのだ。

      
  2013.3月

 “優しい社会”を守るには“強い国”が必要である

 
今回の参議院選挙(2013年)における社民党のキャッチコピーである
“強い国より優しい社会”。

 そりゃ私だって“優しい社会”は大好きである。何しろ私といえば“脱9条派”とは言っても他の政治信条・社会観・人生観においては完全に“リベラル”に属す。このあたり、世の多くの“改憲派”が“保守”の立場をとっているのとはちょっと違うのである。

で、“優しい社会”である。一生懸命“優しい社会”を目指す政治については、だから大いに応援する。個人的にもそうした社会づくりには貢献したいものである。

でもね、そうしてできた“優しい社会”が外部からの力で危機にさらされたときはどうすればいいんですか。

なにも“侵略戦争”とか“ミサイル攻撃”とかの例をもちださないにしても、外交的圧力とか国内に存在する外国勢力によって“優しい社会”が脅かされた時、“国家”が強くないとせっかくの“優しい社会”は守れないんですよ。

   “弱い国”がもたらした“拉致事件”・“基地問題”


たとえば北朝鮮による拉致事件。中学生をも含むおそらくは100人以上もの人間が長期に渡りムザムザと拉致され続けた社会って“優しい社会”って言えますか。被害者や家族にとってこんなに“冷たい残酷な社会”って世界にもそうは無いんじゃないだろうか。

事件当時、日本海には不審船が好き放題航行し、日本社会には朝鮮総連とつるんだ工作員が好き放題活動しているのを野放しにしてきたのは“北朝鮮に優しい”日本社会だったのだ。事件当時、現在のように拉致事件が公式に認知される以前から、いくつかの事件については関係当局が明確に把握していたこと、一部は新聞記事にもなっていたことが明らかになっている。それらをことごとく握りつぶしてきたのが当時の“北朝鮮に優しい日本政治”であり、これを強力に支えてきたのが当時野党ながら対北朝鮮外交を主導してきた日本社会党だったのである。

はい、今回“強い国より優しい社会”を掲げているあの社民党の直系の前身である。

対北朝鮮に限らない。対アメリカ外交だって同様である。
沖縄を始めとする基地周辺で繰り返される強姦・暴行事件、これを支える地位協定。あるいは極端に沖縄に集中する米軍基地。(地理的条件を差し引いても多すぎる)飛行条件も守られず夜間でも平然と騒音を撒き散らす軍用機。

こうした諸問題は“優しい政治”だけでは解決できないでしょう。こうした諸問題を解決して真に“優しい社会”を築くにはどうしても外交的に“強い国”であることが求められるわけです。

   “強い国”と“優しいい社会”は二者択一ではない
 

社民党が言うように“強い国”と“優しい社会”を対立項として並べて二者択一を迫っても何の意味もないということです。“強いだけの国”なんてもちろんサイテーだけど“強い国”であることを抜きにして“優しい社会”なんてゼッタイにありえない。


蛇足。
“強さ”と“優しさ”のモンダイは個人のモンダイでも全く同じである。恋人でも夫婦でも親子でも友人間でも、強さの伴わない優しさなんて外敵の前では何の役にも立たない。

最近の様々な事件の中で私が最も心を痛めた事の一つが“桜宮高校バスケ部キャプテン自殺事件”である。
顧問に度々ボコボコに殴られて帰宅しても“優しく迎える”ことしか出来なかった両親。自殺の数日前には母親が顧問と“話し合い”の場を持ったそうだがこんなのは暴力顧問の凶暴性の火に油を注ぐだけである。両親のどちらかに、顧問や学校や日本のスポーツ界を敵に回してでも息子を守る“強さ”があったなら彼は死なずに済んだのに、と思うと、キャプテンが可哀そうで可哀そうでならない。