2014.8月
サンデーモーニングの9条ぶりはヒドすぎるので、普段決して見ることは無いのだが、今日は他の録画予約をしてる時にチャンネルがあってしまっていてつい目に飛び込んでしまった。
そしたらやっぱり、である。
関口いわく
“そもそも歴史を振り返ってみても、抑止力で戦争を止られたことなんてありませんよね”
何行っとるんじゃー。“抑止力は”戦争を止める力じゃなくて、戦争を起こさせない力だろうが。
で、米ソ冷戦時も、ついに全面戦争にも第3次世界大戦にも至らなかったのは抑止力が働いたからだろうが。
中国が核保有国やその同盟国に戦争しかけたり領土奪ったり出来ないのは抑止力が働いているからだろうが。
尖閣が中国に奪われないのは9条のおかげなのか。
台湾が中国に奪われないのは何のおかげなんだ。
逆に抑止力のないチベットを侵略し、ウイグル人を虐殺し、アメリカ軍が去った後のフィリピンから南沙諸島を奪ったのは中国だろうが。
その他現在進行中の戦争紛争は全て抑止力が効いていないか、バランスが崩れてしまったところだ。
まあこういう現状無視の感情論だけで成り立っているのが“9条いのち”の人達なのはわかりきってはいるんだけど、久しぶりに目の当たりにすると、やっぱり腹が立つよなあ。
2014.8月
まずはっきりさせておかなくてはいけないのは、“集団的自衛権”云々以前の問題として、日本国憲法は自衛隊の存在そのもの、交戦権そのものを認めていないということである。従って私達がまず取り組まなくては行けないのは憲法の改正である。これ以上解釈改憲を繰り返して、法治国家やらコトバやらを冒涜し続けるのはカンベンしてほしいものです。
その上で、これだけ国論を二分している論点であるゆえ、“集団的自衛権”について論じることにする。
武力によって国を守るには4つの方法がある。
一国家単独による方法が2つ、他国との軍事同盟を結ぶ方法が2つ、である。
1.一国家単独の方法の一つ目は核保有国になること。
核拡散防止条約を物ともせずとにかく核開発しちゃえばよい。他国は基本的にこの国には手出しができない。北朝鮮がその一例である。
2.一国家単独の2つ目は国民皆兵のスイス方式である。
核など持たなくても、最後は国土を焦土と化しても他国の侵略はゼッタイに許さないという気概と理念を国家と国民が明確に持ち、そのための法を整備し、具体的訓練を重ねていれば他国はこの国を侵略できない。
もちろん現実の場では国民の全てが兵士になる必要は無く、思想信条得手不得手等の理由により武器を手にしない自由は認められてよい。
3.他国との軍事同盟による方法の一つ目は言うまでもなく集団的自衛権の行使を含むフツウの軍事同盟である。世界中の大多数の国がこの方法を摂っているといえる。同盟国に核保有国が含まれていればより強力であることは言うまでもない。
4.軍事同盟のもう一つの方法は他国の軍事的“保護国”となることである。
リヒテンシュタインやモナコなどがそれぞれスイス、フランスの保護を受け、自らは軍事力を持たずに“国を守って”いる。アイスランドなどもNATOの保護下にある。
(この他、傭兵のみの軍事力で国を守っているバチカンなどの例もあるがこれはあまりに特殊な例であるゆえここでは取り上げない。)
日本の現状は“準保護国である”
さて日本である。
この4つのどれに分類されるのか。
軍隊は保持しているが、憲法上、基本的には“戦ってはいけない軍隊”である。それどころか冒頭に述べたように“存在してもいけない軍隊”ですらある。そうした中、この矛盾をクリアするために解釈改憲を繰り返してきたわけであるが、“憲法の精神(笑)”を尊重するのであれば、さすがに他国のために戦うのはあんまりである、と考えるのが、順当であるといえるだろう。今の憲法の前文と9条を替えない限りは、である。
こうしてみると日本の現状は上の4分類の中では、4つめの保護国に近く、いわば“準保護国”と言える。もちろん保護しているのはアメリカである。尖閣等でモンダイが起こるたび、“果たしてアメリカは尖閣を守ってくれるのか”がとりざたされ、アメリカ政府高官の言値を取ること等に焦点が当たるのが“準保護国”である何よりの証明である。
また保護国の多くは軍事面のみならず外交面においても“保護している国”に全面委任している事が多く、何の事はない、かつては“属国”と言われていたような状態であるといえる。
そういう意味においても、
“日本の外交はアメリカに追従しているだけである”とか
“日本はアメリカの属国か”等としばしば言われるのを見ても、日本は“準保護国”であるという分類は的確であるといえる。
(最近は日本の独自外交も目につく。これは安倍政権の“脱保護国政策”の一環であるといえる。)
以上のような視点に立つと、“集団的自衛権行使容認”問題もまた視界が広がってくる。
つまり上記“国を守る4つの方法”のうち、
日本はどれを選択すべきか、選択しうるか、
という視界である
1.核拡散防止条約を物ともせず核保有国になるのか。
これはちょっと現実的に無理でしょう。私自身そうするべきだとも思わない。
まあそういうことをシュミレーションして見る姿勢は重要だとは思うが。
2.スイス型を目指すか。
私個人的にはこれが最も誇り高い選択だとは思う。
しかしこれも現実的には今の日本には無理でしょう。
自分らの大切な社会を守るのに最後には最低限の武力は必要であるというアッタリマエの合意すらできていなくて、軍隊といえば“人殺しのための集団”と信じて疑わない人達・メディアがそれなりの勢力を今だ保っているこの国においては、です。
(この人達にかかればスイスは“国ぐるみの人殺し集団”ということになるわけだが、そういう論理的視点からは目をそらす。)
結局残るは3か4で、つまりは準保護国である現状を維持するか、あるいは集団的自衛権行使を含む対等な関係による同盟を構築するか、という選択です。
そう考えればもう答えは明白だと思う。
“集団的自衛権”で日本はアメリカの戦争に巻き込まれるのか
ひとつ付け加えておけば、集団的自衛権行使反対派の主張として、
“他国(特にアメリカ)の戦争に巻き込まれる”
というのがあるが、これは全くナンセンスな主張である。
イラク戦争を思い返せば、当時集団的自衛権行使が容認されていなくたって、日本はアメリカの戦争に巻き込まれ、積極的に協力したのだ。一方フランス・ドイツ・カナダなどは集団的自衛権行使を含むアメリカの同盟国でありながら、協力を拒否したのだ。(ドイツ・カナダなどは日本同様国内に米軍基地だってある)
つまり、“アメリカの戦争に巻き込まれるかどうか”という問題と集団的自衛権とは全く無関係であるといえる。
さらに言えば、準保護国である日本が、保護国に外交権がないことに準じていると考えれば、準保護国であるからこそ問答無用にイラク戦争に“巻き込まれた”とも言える。
“巻き込まれた”とは“自立した判断が出来なかった”と同義語である。
フランス・ドイツ・カナダなどは対等な同盟国であるからこそ自立した決断が出来たということだ。
つまり“アメリカの戦争”に巻き込まれないためにも対等な同盟関係の構築が必要なのであって、そのためには集団的自衛権の行使は容認されなければならないといえる。
そしてもちろんこの“権利”を行使するか否かを決定するのは私達自立した日本国民であるということを自覚しなければならない。“巻き込まれる”とかなんとかいう受け身の話でもなければ、アメリカに対する義務の話でもないのだ。
ただし冒頭に述べたようにあくまでその前提としてまず、憲法改正、である。
もちろんリベラルの私としては自民党の憲法草案を支持しているわけでは全くありません。
追記
この記事は“安保法”成立以前に書かれたものです。
成立後の“変化”については
“集団的自衛権で日本は更に米国の戦争に巻き込まれるのか ”
“脱・米国追従外交は脱9条から始まる ”
等を御覧ください。
まずはっきりさせておかなくてはいけないのは、“集団的自衛権”云々以前の問題として、日本国憲法は自衛隊の存在そのもの、交戦権そのものを認めていないということである。従って私達がまず取り組まなくては行けないのは憲法の改正である。これ以上解釈改憲を繰り返して、法治国家やらコトバやらを冒涜し続けるのはカンベンしてほしいものです。
その上で、これだけ国論を二分している論点であるゆえ、“集団的自衛権”について論じることにする。
武力によって国を守るには4つの方法がある。
一国家単独による方法が2つ、他国との軍事同盟を結ぶ方法が2つ、である。
1.一国家単独の方法の一つ目は核保有国になること。
核拡散防止条約を物ともせずとにかく核開発しちゃえばよい。他国は基本的にこの国には手出しができない。北朝鮮がその一例である。
2.一国家単独の2つ目は国民皆兵のスイス方式である。
核など持たなくても、最後は国土を焦土と化しても他国の侵略はゼッタイに許さないという気概と理念を国家と国民が明確に持ち、そのための法を整備し、具体的訓練を重ねていれば他国はこの国を侵略できない。
もちろん現実の場では国民の全てが兵士になる必要は無く、思想信条得手不得手等の理由により武器を手にしない自由は認められてよい。
3.他国との軍事同盟による方法の一つ目は言うまでもなく集団的自衛権の行使を含むフツウの軍事同盟である。世界中の大多数の国がこの方法を摂っているといえる。同盟国に核保有国が含まれていればより強力であることは言うまでもない。
4.軍事同盟のもう一つの方法は他国の軍事的“保護国”となることである。
リヒテンシュタインやモナコなどがそれぞれスイス、フランスの保護を受け、自らは軍事力を持たずに“国を守って”いる。アイスランドなどもNATOの保護下にある。
(この他、傭兵のみの軍事力で国を守っているバチカンなどの例もあるがこれはあまりに特殊な例であるゆえここでは取り上げない。)
日本の現状は“準保護国である”
さて日本である。
この4つのどれに分類されるのか。
軍隊は保持しているが、憲法上、基本的には“戦ってはいけない軍隊”である。それどころか冒頭に述べたように“存在してもいけない軍隊”ですらある。そうした中、この矛盾をクリアするために解釈改憲を繰り返してきたわけであるが、“憲法の精神(笑)”を尊重するのであれば、さすがに他国のために戦うのはあんまりである、と考えるのが、順当であるといえるだろう。今の憲法の前文と9条を替えない限りは、である。
こうしてみると日本の現状は上の4分類の中では、4つめの保護国に近く、いわば“準保護国”と言える。もちろん保護しているのはアメリカである。尖閣等でモンダイが起こるたび、“果たしてアメリカは尖閣を守ってくれるのか”がとりざたされ、アメリカ政府高官の言値を取ること等に焦点が当たるのが“準保護国”である何よりの証明である。
また保護国の多くは軍事面のみならず外交面においても“保護している国”に全面委任している事が多く、何の事はない、かつては“属国”と言われていたような状態であるといえる。
そういう意味においても、
“日本の外交はアメリカに追従しているだけである”とか
“日本はアメリカの属国か”等としばしば言われるのを見ても、日本は“準保護国”であるという分類は的確であるといえる。
(最近は日本の独自外交も目につく。これは安倍政権の“脱保護国政策”の一環であるといえる。)
以上のような視点に立つと、“集団的自衛権行使容認”問題もまた視界が広がってくる。
つまり上記“国を守る4つの方法”のうち、
日本はどれを選択すべきか、選択しうるか、
という視界である
1.核拡散防止条約を物ともせず核保有国になるのか。
これはちょっと現実的に無理でしょう。私自身そうするべきだとも思わない。
まあそういうことをシュミレーションして見る姿勢は重要だとは思うが。
2.スイス型を目指すか。
私個人的にはこれが最も誇り高い選択だとは思う。
しかしこれも現実的には今の日本には無理でしょう。
自分らの大切な社会を守るのに最後には最低限の武力は必要であるというアッタリマエの合意すらできていなくて、軍隊といえば“人殺しのための集団”と信じて疑わない人達・メディアがそれなりの勢力を今だ保っているこの国においては、です。
(この人達にかかればスイスは“国ぐるみの人殺し集団”ということになるわけだが、そういう論理的視点からは目をそらす。)
結局残るは3か4で、つまりは準保護国である現状を維持するか、あるいは集団的自衛権行使を含む対等な関係による同盟を構築するか、という選択です。
そう考えればもう答えは明白だと思う。
“集団的自衛権”で日本はアメリカの戦争に巻き込まれるのか
ひとつ付け加えておけば、集団的自衛権行使反対派の主張として、
“他国(特にアメリカ)の戦争に巻き込まれる”
というのがあるが、これは全くナンセンスな主張である。
イラク戦争を思い返せば、当時集団的自衛権行使が容認されていなくたって、日本はアメリカの戦争に巻き込まれ、積極的に協力したのだ。一方フランス・ドイツ・カナダなどは集団的自衛権行使を含むアメリカの同盟国でありながら、協力を拒否したのだ。(ドイツ・カナダなどは日本同様国内に米軍基地だってある)
つまり、“アメリカの戦争に巻き込まれるかどうか”という問題と集団的自衛権とは全く無関係であるといえる。
さらに言えば、準保護国である日本が、保護国に外交権がないことに準じていると考えれば、準保護国であるからこそ問答無用にイラク戦争に“巻き込まれた”とも言える。
“巻き込まれた”とは“自立した判断が出来なかった”と同義語である。
フランス・ドイツ・カナダなどは対等な同盟国であるからこそ自立した決断が出来たということだ。
つまり“アメリカの戦争”に巻き込まれないためにも対等な同盟関係の構築が必要なのであって、そのためには集団的自衛権の行使は容認されなければならないといえる。
そしてもちろんこの“権利”を行使するか否かを決定するのは私達自立した日本国民であるということを自覚しなければならない。“巻き込まれる”とかなんとかいう受け身の話でもなければ、アメリカに対する義務の話でもないのだ。
ただし冒頭に述べたようにあくまでその前提としてまず、憲法改正、である。
もちろんリベラルの私としては自民党の憲法草案を支持しているわけでは全くありません。
追記
この記事は“安保法”成立以前に書かれたものです。
成立後の“変化”については
“集団的自衛権で日本は更に米国の戦争に巻き込まれるのか ”
“脱・米国追従外交は脱9条から始まる ”
等を御覧ください。
少し古い話になるが、朝日新聞2014年2月12日インタビュー記事である。
答えるのは評論家、宇野常寛氏。まずは引用してみる。
“リベラル勢力のある種の大衆蔑視だと思う”by宇野常寛
“現実に東アジア情勢は緊迫し、北朝鮮の状況も混迷している。この状況下で防衛、外交方針を具体的に打ち出す保守派に対して、リベラル勢力は数十年前から更新されない言葉で教条的かつ精神論的な憲法9条擁護論を繰り返すだけで、現実に存在する国民の不安に対応しようとしない。
たとえば自民党が国防軍の明記などを盛り込んだ憲法改正草案を発表したとき、多くのリベラルな憲法学者たちは「憲法とは何かを分かっていない」と自民党案をバカにした。(中略)リベラル勢力はこうして相手をバカにするだけで自分たちは具体的な処方箋を出せていない。(中略)国家に軍事力が必要であることも(中略)認めた上で(中略)現実的な選択肢を提示することがリベラル側にもっと必要だと思う。”
さらに
“リベラル勢力のある種の大衆蔑視だと思う”
とつづく。
もう100点満点の、9条と9条派を取り巻く分析である。
となればもう9条を改正し、あるいは条文を追加して自衛隊を合法化するのが法治国家として当然である、という結論になるはずなのだが、宇野氏の結論はそうはならない。“性急な改憲”には反対だそうである。つまり自衛隊の違憲状態をこのまま続けるって事で、よほど立憲主義が嫌いらしい。
といっても私は宇野氏のこの矛盾を糾弾しようというのではない。
とても誠実で真面目な方なのだと思う。氏自身が指摘しているようなアリキタリの護憲派とは異なり、しっかりと現実と向き合い思索を重ね、9条とその信奉者達の矛盾と不真面目さに気づいてしまった。しかしそれでいてどうしても9条は否定出来ない。
物心ついた頃からずっと9条を信奉してきた人間にとって、9条を否定することはそれまでの自分の人生の全てを否定することなのだ。
この状態を私は“9条の呪縛”と呼ぶ。
この“脱9条論”で9条と9条派をボロクソに全否定している私であるが、宇野氏の現在の矛盾こそ十数年前の私の姿なのである。
十数年前、ある日ふと9条に疑問を感じた。それから自分自身あるいは日本を取り巻く現実を真面目に認識すればするほど9条の矛盾・インチキさは明確になってゆく。それでもどうしても9条を否定しきれない苦悶の日々。
結局私が9条信仰から脱するのに十年以上の歳月を要した。
がんばれ宇野常寛さん。
あなたの現実を直視する勇気と誠実さがあれば、きっといつか9条信仰の呪縛から開放されて、新しい世界が見えてくる。
そこで元9条派にして現脱9条派、そしてリベラルであり続ける私から老婆心ながらアドバイスを一つ。
インタビューにおいて宇野氏は“国家に軍事力が必要であることも(中略)認めた上で”との発言の前に“私見では”と前置きをつけている。政治家でも公務員でもNHKの経営委員でもなく“評論家”である氏の発言が“私見”であるのはアタリマエである。私見を述べる事こそが評論家の仕事だとも言える。そんなアタリマエの前置きをなぜ付けなければならなかったのか。
それは9条を信奉する集団において9条信徒は全て公人であるのだ。世界と日本を9条によって平和へと導く公の存在、選ばれし存在という意味において公人であるという認識なのだ。
恐るべき選民思想であるといえる。
この認識こそが宇野氏も指摘する“リベラル勢力のある種の大衆蔑視”に他ならない。
この9条集団に身をおき、この選民意識を持ち続けていれば、脱9条への道は遠いものにならざるを得ない。
で、アドバイスの話でしたね。宇野氏が今以上に現実を直視し、氏の思想を深めるためにはまず、氏が現在身をおいている9条集団から距離を置くことが重要である。教団に身を置きつつ尚、反教団的思索を進めることなど生身の人間には不可能であるということだ。
教団から距離を置き、私人が発言するのにいちいち“私見ですが”などと断らなくなった時に、宇野常寛氏は思想家として自立を果たすことが出来る。
今後に期待したい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
実は上記の文章は2014年当時に書いたもので、なぜか下書き保存のまま公開されずにいたものである。先日たまたま見つけたので改めて公開する。
ちなみに宇野氏は、数ヶ月前報道ステーションに出演して
“現行憲法は時代に合わなくなっている。自衛隊の位置付けだけでも明確にすべきだ”
という趣旨の発言をして、9条派の古館伊知郎に嫌な顔されていた。
“9条の呪縛”から解放されたようである。めでたしめでたし。
答えるのは評論家、宇野常寛氏。まずは引用してみる。
“リベラル勢力のある種の大衆蔑視だと思う”by宇野常寛
“現実に東アジア情勢は緊迫し、北朝鮮の状況も混迷している。この状況下で防衛、外交方針を具体的に打ち出す保守派に対して、リベラル勢力は数十年前から更新されない言葉で教条的かつ精神論的な憲法9条擁護論を繰り返すだけで、現実に存在する国民の不安に対応しようとしない。
たとえば自民党が国防軍の明記などを盛り込んだ憲法改正草案を発表したとき、多くのリベラルな憲法学者たちは「憲法とは何かを分かっていない」と自民党案をバカにした。(中略)リベラル勢力はこうして相手をバカにするだけで自分たちは具体的な処方箋を出せていない。(中略)国家に軍事力が必要であることも(中略)認めた上で(中略)現実的な選択肢を提示することがリベラル側にもっと必要だと思う。”
さらに
“リベラル勢力のある種の大衆蔑視だと思う”
とつづく。
もう100点満点の、9条と9条派を取り巻く分析である。
となればもう9条を改正し、あるいは条文を追加して自衛隊を合法化するのが法治国家として当然である、という結論になるはずなのだが、宇野氏の結論はそうはならない。“性急な改憲”には反対だそうである。つまり自衛隊の違憲状態をこのまま続けるって事で、よほど立憲主義が嫌いらしい。
といっても私は宇野氏のこの矛盾を糾弾しようというのではない。
とても誠実で真面目な方なのだと思う。氏自身が指摘しているようなアリキタリの護憲派とは異なり、しっかりと現実と向き合い思索を重ね、9条とその信奉者達の矛盾と不真面目さに気づいてしまった。しかしそれでいてどうしても9条は否定出来ない。
物心ついた頃からずっと9条を信奉してきた人間にとって、9条を否定することはそれまでの自分の人生の全てを否定することなのだ。
この状態を私は“9条の呪縛”と呼ぶ。
この“脱9条論”で9条と9条派をボロクソに全否定している私であるが、宇野氏の現在の矛盾こそ十数年前の私の姿なのである。
十数年前、ある日ふと9条に疑問を感じた。それから自分自身あるいは日本を取り巻く現実を真面目に認識すればするほど9条の矛盾・インチキさは明確になってゆく。それでもどうしても9条を否定しきれない苦悶の日々。
結局私が9条信仰から脱するのに十年以上の歳月を要した。
がんばれ宇野常寛さん。
あなたの現実を直視する勇気と誠実さがあれば、きっといつか9条信仰の呪縛から開放されて、新しい世界が見えてくる。
そこで元9条派にして現脱9条派、そしてリベラルであり続ける私から老婆心ながらアドバイスを一つ。
インタビューにおいて宇野氏は“国家に軍事力が必要であることも(中略)認めた上で”との発言の前に“私見では”と前置きをつけている。政治家でも公務員でもNHKの経営委員でもなく“評論家”である氏の発言が“私見”であるのはアタリマエである。私見を述べる事こそが評論家の仕事だとも言える。そんなアタリマエの前置きをなぜ付けなければならなかったのか。
それは9条を信奉する集団において9条信徒は全て公人であるのだ。世界と日本を9条によって平和へと導く公の存在、選ばれし存在という意味において公人であるという認識なのだ。
恐るべき選民思想であるといえる。
この認識こそが宇野氏も指摘する“リベラル勢力のある種の大衆蔑視”に他ならない。
この9条集団に身をおき、この選民意識を持ち続けていれば、脱9条への道は遠いものにならざるを得ない。
で、アドバイスの話でしたね。宇野氏が今以上に現実を直視し、氏の思想を深めるためにはまず、氏が現在身をおいている9条集団から距離を置くことが重要である。教団に身を置きつつ尚、反教団的思索を進めることなど生身の人間には不可能であるということだ。
教団から距離を置き、私人が発言するのにいちいち“私見ですが”などと断らなくなった時に、宇野常寛氏は思想家として自立を果たすことが出来る。
今後に期待したい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
実は上記の文章は2014年当時に書いたもので、なぜか下書き保存のまま公開されずにいたものである。先日たまたま見つけたので改めて公開する。
ちなみに宇野氏は、数ヶ月前報道ステーションに出演して
“現行憲法は時代に合わなくなっている。自衛隊の位置付けだけでも明確にすべきだ”
という趣旨の発言をして、9条派の古館伊知郎に嫌な顔されていた。
“9条の呪縛”から解放されたようである。めでたしめでたし。