9条改正問題とは日本における宗教問題なのだ | 脱9条のススメ    護憲・リベラルのための憲法9条講座

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かつてガチガチの9条平和主義者だった私がその大矛盾に気づいてしまいました。
様々なテーマでリベラルの視点から、具体的・論理的に脱9条論を展開します。

 たとえば、かつて私の娘が通っていた高校では,校則によってケータイ電話の校内持ち込みは禁止されていた。ところが当然の事ながら生徒たちは皆ケータイを持ち込み、トイレ等で使っていたという。ここまではいい。いつの時代どこでも見られる生徒と校則の関係であると言えるだろう。
 
 モンダイはこの先である。多くの部活動において、顧問の先生とキャプテン・部員との連絡にフツウにケータイによるメールが使われていたというのだ。もちろん校内で、である。
 こうなるともう、この高校では“携帯電話の校内持ち込みは禁止”などという校則は実質存在していない、というべきであろう。いくら文面として、生徒手帳に明記されていても、である。
 (さすがに数年後には“放課後までは校内使用禁止”だかに改められたそうである。当然であり、また、健全な法感覚であると言えるだろう。)

 さて憲法9条である。ご存知のように、第2項には“陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない”と明記されている。にも関わらず、日本には自衛隊という名において陸海空軍その他の戦力を保持しているのもご存知のとおりである。既に60年以上もこの状態にあるのは、もはや違憲状態だの憲法解釈がどうのだの言う状態を完全に超えている。
 
 もはや憲法9条などこの日本には存在していない、というべきだろう。
 たとえ文面として存在していても、実質“法”として存在していない。
 この国の法として日本語におけるそのままの意味においてなんら機能していない。

(というとすぐに“いやそれでも武力行使へのハドメになっているのだ”という“ハドメ理論” を持ち出す人がいるのだが、これについてはこのブログの別の記事を参照していただきたい。)

“ケータイの校則と国の法律を並べたってしょうがないだろう。”という反論もあるかも知れない。
が、国の法律においても同じ例はある。

 かつて食糧管理法という法律があって、これは戦前戦後の食糧難の時代に米を公平にに配給するために定められたものである。
 各家庭に“米穀通帳”が配られ、これがなければ米は買えない、外食においても米は食えないと食管法で定められていた。
 が、戦後の復興と共に食糧の増産が進み、米穀通帳はいつの間にか使われなくなっていった。
 おそくとも1960年代には日本中どこでも米穀通帳ナシで米は買える時代になっていたハズなのだが、食管法は廃止されず、日本中のヒトが食糧管理法違反を犯していたことになる。70年代の調査では政府の閣僚ですら米穀通帳を使っていたのは一人だけだったという。
 もちろんこの間逮捕者が出ることもなく、まさにこの頃食糧管理法は“法の文面”としては存在していたが、実質存在していなかったということだ。

 さすがにこれではマズイであろうということで、1981年食糧管理法は何の異論もなく改正された。現状を法律が追認したということである。当然国民生活には何の変化もなかった。ただ法治国家としてのスジを通したということだ。

 さてあらためて9条である。いまや護憲派と言ってもかつてのように“非武装中立”などというのはごく少数で、自衛隊の存在は認めるのが多数派となっている。

 だから憲法9条にしろ、このような現状を追認して改正されればいいだけのハナシである。現状を追認するということは、食管法改正の時と同様、国民生活にも国家のあり方にも何ら変化はないということだ。法治国家としてのスジを通すべきであるというアタリマエの話をしているだけである。

 こういうアタリマエの話が通らないのは、護憲派の皆さんにとって、9条が食糧管理法などの一般の法律とは全く異なるものであるということだ。彼らにとって憲法9条は、法律などという俗世間のもの、一般人が勝手に変えたりしてよいものではなく、神聖なる経典であるのだ。
 世界中どこの一神教の信者も自らの神を汚されるのは許せないし、その経典の異教徒による“改正”なんか認めるわけがない。

 日本における9条改正モンダイとは実は政治問題と言うよりは宗教問題であり、彼らにとっては宗教弾圧問題であると考えたほうが良い。