どうしても「村山知義」の名前が覚えられない。けっして難しい名前ではないし、かといってありふれた名前でもない。にもかかわらず、私は、用賀駅から美術館のある砧公園へと至る20分弱の散歩をしながら、ムラムラ…ムラヤ…と呟いていた。これから待っているのはいったい誰の作品なのか――。 
しかし、今回初めて「村山知義」の作品を一挙に観ることができ、そうしたこともまた、「前衛」運動の旗手にふさわしいと感じた。絵画、造形美術はもとより、ダンス、舞台美術、映画美術、装幀、挿絵、小説、戯曲、雑誌編集、演出、絵本……と、“多岐に渡る”という言葉ではとらえきれない、数多の業績を残した村山は、まさに“とらえることのできない人”だからだ(その振り幅と芸術への情熱は、寺山修司やジャン・コクトーを想起させる)。会場のオープニングに掲げられた次の言葉は、村山知義の全体とは言い過ぎとしてもその多くを表しているのではないか。


「すべての僕の情熱と思索と小唄と哲学と絶望と病気とは、表現を求めようとして具象されようとして沸騰する」(「過ぎゆく表現派」1925)

そう、沸騰する。会場は確かに熱かった。夏だからではない。その密度故だ。

明治34(1901)年生まれの村山知義は、大正11(1913)年のドイツ留学、パウル・クレーやワシリー・カンディンスキー、アレクサンダー・アーキペンコらからの影響を経て、前衛美術団体「マヴォ」を結成、機関誌「Mavo」を創刊する。一高学生時代に有楽座で観た民衆座第1回公演『青い鳥』(チルチルを水谷八重子、ミチルを夏川静江が演じた)が最初の本格的芝居体験だそうだが、自ずと表現の矛先は芝居へと突き進み、大正14(1925)年、河原崎長十郎(!)、舟橋聖一(!!)らと劇団「心座」を結成。その間、吉行あぐりの「山の手美容院」の設計(!!!)や、土方与志演出『朝から夜中まで』の舞台装置制作をしている。この『朝から夜中まで』の舞台装置模型が、今展覧会の最大の見どころだ。緻密な表現主義的な造形と若さ溢れる血潮に、多いに興奮した。
手掛けた舞台美術=約150本、演出=約414本、戯曲=約194本。驚異的な数字だ。昭和52(1977)年逝去――最期の言葉は「演劇運動 万歳」だったという。

映画との関わりも興味深い。美術(『日輪』)、原作(『忍びの者』シリーズ)、さらには、P.C.L(現東宝)に入社して監督・脚本(『接吻の責任』『初恋』)までしてしまう(P.C.L入社の経緯に河原崎長十郎は関係あるのだろうか)。ここまでくると、ずうずうしさを超えてすがすがしい。

また、近年再評価されている『コドモノクニ』など、児童雑誌に寄せたイラストの展示も大きなウェイトを占めていた。その「こどもたちのために」と題するコーナーでは、実際にたくさんの子どもたちが目を輝かせていて、あちらこちらからくすくすと楽しげな笑い声が聞こえた。きっと、沸騰し天に昇ったムラヤマトモヨシが、クレーのように天使(=子ども)たちと交流していたのだろう。

ところで、裸で前衛舞踊を披露する若き村山知義の姿を収めた写真がいくつか展示されていたが、あのルイーズ・ブルックスのようなおかっぱ頭は、当時流行していたのだろうか。2Fで同時開催されていた花森安治も確か同じような髪型にしていたことがあったので、隠された共通の主題は“おかっぱ頭”ではないかとひそかに期待していたが、その花森の展示の方は時間的に見ることができず、確かめることができなかった。それだけが心残りだ。(ひ)

※『すべての僕が沸騰する―村山知義の宇宙―』展は9月2日に終了した。