『東京の風俗(冨山房百科文庫 14)』木村荘八

薫風のような本だ。回想集でありながら湿り気はなく梅雨入り前の爽やかなそよ風が吹いている。永井荷風『濹東綺譚』(昭和12年)の挿画で知られる挿絵画家木村荘八(1893-1958)による随筆集。挿絵画家ならではのタッチで明治期の東京下町の風景が事細かに活写されており、思わず「へえ~」とか「はあ~」とか口ずさんでしまう。たとえば、吉原のおはぐろ溝に架かっていたハネ橋のしくみ、劇場の立ち見席に張られていた金網の目の大きさ、明治初年の木橋の構造……などなど、それこそ挿絵から飛び出してきたような生き生きとしたレポートとなっているのである。盟友・岸田劉生や師匠・鏑木清方についてのエッセイも美術好きにはうれしい一篇だ。

木村荘八は、江戸有数の盛り場であった両国広小路や柳橋に隣接する吉川町の牛鍋屋「いろは」で生まれた。それゆえ、両国界隈の描写がもっとも生彩を放っている。40年ほど先の話だが、小林信彦もこの辺りの商家出身だ。

ところで、一昨年(2012年)は大正100年だったが、それはつまり、明治生まれで存命の人が限りなくゼロに近づいた、ということでもあるのではないか。もはや「明治は遠くなりにけり」(by中村草田男)の「遠さ」を実感することはSFに近く、「明治は〈はるか〉遠く〈幻想に〉なりにけり」なのである。そんな明治の幻想がこの書物に乾いた風を吹かせているようにも思える。

本書(冨山房百科文庫)は昭和24(1949)年の毎日新聞社刊を底本としている。この時点で大正の大震災や戦災によって街並は大きく変化していたが、序章には次のようにある。

「如何に破壊されようとも、よしんば悪化されようとも、そこに地息のやうなものがあって、その中の虫のやうに、私は東京を呼吸して生きてゐると思います」

昭和33年に逝去した木村は、東京オリンピックもバブルも知らないが、もし立ち会っていたら小林のように〈街殺し〉に対する怒りを露にしていたであろうか。

東京の風俗 (冨山房百科文庫 14)/冨山房

¥891
Amazon.co.jp