何の本かも判然としないまま引き寄せられるようにして手にした。そして、水を飲み干すように一気に読み終えた。金井美恵子さんの主に絵本について書かれた本書は、絵本に限らず全ての本好きにとってバイブルになるに違いない、美しさと愛と生きる哲学に溢れた素晴らしい作品だ。もともとは『母の友』に1996年4月~98年3月に連載されたエッセイが単行本として2000年に刊行。この度、新たにエッセイ、石井桃子氏との対談などが加わり、平凡社ライブラリーに入った。単行本の方は全く知らずにいたので、心底、平凡社様ありがとうございますと感謝の気持ちでいっぱいだ。
何より前半の絵本の紹介が素晴らしい。マーガレット・ワイズ・ブラウンの『ぼくにげちゃうよ』、ルドウィッヒ・ベーメルマンスの『マドレーヌ』シリーズ、今年亡くなったモーリス・センダックの作品群、フィービとセルビ・ウォージントンの『くまさん』シリーズ、ピアトリクス・ポターの『ピーターラビット』シリーズ……。24章にわたって、これらの絵本の秘密を解き明かす。といって、ありがちな、絵本はすべからく美しい、といった無邪気な賛辞は決して贈らない。あくまで本の一種としての絵本として評す。それは、著者が語るように、取り上げた絵本は「年齢を問わない「子供たち」というより、むしろ、年齢を問わない「大人たち」に面白いもの」で、「絵本を「おさな心とその保護者」から、解放する」ことが「野心」だと告白までしているのだから、当然といえば当然かもしれない。実際、私は導かれるように、フィービとセルビ・ウォージントンの『せきたんやのくまさん』と『パンやのくまさん』の虚構と現実が混ざり合ったような叙事詩的世界を堪能し尽くし、『くまさん』の続編を読みたくて仕方なくなってしまった。
誰もが簡単に口走ってしまうが、「本好き」とは、本来「「本の小部屋」の住人」であるはずで、「本の小部屋」とは「雑多な玉石混淆の先行する作品の山積みされた輝き」のことだという。そして、本文中で引用されたファージョンの次の言葉がそのまま著者と「本の小部屋」との出会いになるのではないか。
「本なしで生活するよりも、切るものなしでいるほうが、自然にさえ思われました。そして、また本を読まないでいることは、たべないでいるのとおなじくらい不自然に。」(P.206)
「本の小部屋」というと映画狂であり、小説狂であった故フランソワ・トリュフォーのSF映画『華氏451』(1966)のラストを思い出す。本を禁止された世界で知を守る唯一の手段として、人々が一斉に本を暗記している感動的なシーンだ。あれはどこかの地下だったか忘れてしまったが、その大きさはともかく、あの場所こそ「本の小部屋」にふさわしく感じる。
ところで、「ドリトル先生」があのチェスタートンの「ブラウン神父」の遠い親戚だったとは知らなかった。曰く、「ドリトル先生は丸い鼻のチビの子ぶとりで、いわば、あの、多少キザな逆説をあやつるブラウン神父から、哲学的逆説と反共的お説教をのぞいたような人物なのである」(P.234)。そうそう、そうなのだ! と、思わず膝を打ちたくなった。長年の胸のつかえが下りたような爽快感でいっぱいだ。まさに「本の中から生まれた本」だ。
