我が国水力発電・電気鉄道のルーツ | レールは、こころをつなぐ道。

この記事は祖父の高木文平が残した小冊子に興味と疑問を抱いた孫の高木誠が、高木文平と田辺朔郎の明治21(1888)年の渡米視察の足跡を尋ねて平成8(1996)年に旅をした後、平成12(2000)年に出版した著書「わが国水力発電・電気鉄道のルーツ - あなたはデブロー氏を知っていますか」を参考にしています

発売時この本に施されていた帯には「電気王と呼ばれた明治の田舎侍・高木文平は、なぜデブロー氏に深い謝意を表したのか?」「訪米調査でわかった新事実とは。」とあります。

 

前回の記事

 

平成8(1996)年アスペンのヒストリカル・ソサイエティで資料を調査した高木文平の孫の高木誠(当時71歳)は帰国後、高木文平と田辺朔郎の明治21(1888)年の渡米視察についてアスペン市長に『百年以上も前の情報伝達の乏しい時代で、どこの誰がアメリカの水力発電の先駆かは確定できない。それぞれが独自に研究努力していた時代なので、全ての先人達に感謝したい。

祖父高木文平が言う、アスペンのデブロー氏が世界最初、アメリカ最初の水力発電の発明者であったかも分からないが、アスペンのデブロー氏なる人物が、明治21(1888)年12月28日の午後、たった二カ月前に完成したばかりの水力発電に関するすべての知識と技術を、何の制限もなく、全く自由に、日本からの訪問者に開放し、与えられた。その親切こそが、日本に於ける最初の水力発電所の誕生の起源となったという事実です。

京都蹴上発電所が「世界第二ノ設計」か否かも明らかではないが、本格的な水力発電所としては、世界的にみて極めて早期の、しかも冠絶したものであったことは間違いないと考えます。』と礼状を送っています。

 

(画像は蹴上船溜まり付近から蹴上発電所への送水管)


また、高木誠は著書にアスペンの当時の水力発電所施設と蹴上発電所について『現在京都の蹴上の「都ホテル」の北向かいに、古い赤煉瓦の建物があり、これがわが国最初の水力発電所、蹴上発電所で、現在のものは何度か増改築されていたものであるが、今もアスペンのローリングフォーク川のほとりに残る当時の水力発電所、現在のアスペン・アートミュージアムの数倍の大きさはある。』と記載しています。

(画像は蹴上発電所と右端にインクライン)


明治21(1888)年の年末にデブロー氏から水力発電の詳細を教わった田辺朔郎技師は、年明けすぐに帰国して計画変更をし新たな設計を始め、教わった知識を真似するのではなく大きく発展させ、翌 明治23(1890)年琵琶湖疏水を完成させ、翌 明治24(1891)年には日本最初の事業用水力発電所を稼働させたのでした。

この蹴上発電所の電気を利用してインクラインを上下させ、そして明治28(1895)年2月1日、日本最初の電気鉄道「京都電気鉄道(社長:高木文平)」が下油掛(伏見京橋) ~七条停車場(京都駅)で営業を開始することになりました。

ここに高木文平と田辺朔郎の訪米視察時の奇跡の出会いの種が花咲いたのでした。

 

京都電気鉄道下油掛乗り場の京電(左端)と伏見駿河屋

 

伏見駿河屋前の「我国に於ける電気鉄道事業発祥の地」碑

 

 

 

つづく

 


9月の古都の風カレンダー「蹴上インクライン」 

 

Wikipediaより

第3代京都府知事 北垣国道(きたがきくにみち)⇒ こちら

1836(天保7)年~1916(大正5)年

幕末期の志士、明治時代の官僚、政治家

琵琶湖疏水工事計画
高知県令(第4代)、徳島県令(第7・8代)、京都府知事(第3代)、北海道庁長官(第4代)、貴族院議員(勅選)、枢密顧問官を歴任


 

土木技師 田辺朔朗(たなべさくろう)⇒ こちら

1861(文久元)年~1944(昭和19)年

土木技術者・工学者 琵琶湖疏水や日本初の水力発電所の建設、関門海底トンネルの提言を行うなど、日本の近代土木工学の礎を築いた 

北海道官設鉄道敷設部長として北海道の幹線鉄道開発に着手した

1890(明治23)年第一疏水完成後、北垣国道の長女と結婚

 

 

実業家 高木文平(たかぎぶんぺい)⇒ こちら

1843(天保14)年~1910(明治43)年
丹波国北桑田郡神吉村(現・京都府南丹市)の豪農
明治維新後、地元で学校教育の指導などを行っていたが実業界に転じ、1882年には京都商工会議所の初代会長
1888年には米国視察を経験し、電気鉄道を目の当たりにし、日本でもこれを実現すべく奔走し「京都電気鉄道会社」を立ち上げ、自ら社長に就任
府議会議員、市議会議員として活躍