寺町通を電車が走っていた! | レールは、こころをつなぐ道。

これは8月の記事で…

 

「木屋町通を電車が…」に続き、「寺町通を電車が走っていた!」

絵:窪田和弘 ⇒ 京都市電ロマン

 

それは日本最初の電気鉄道、京都電気鉄道が1895(明治28)年に伏見京橋~七条停車場(京都駅)を経由して岡崎周辺で開催された第4回内国勧業博覧会会場を結ぶため開業した同じ年に、引き続き木屋町二条から西へ、二条寺町から北へ、寺町丸太町から再び西へ、烏丸丸太町~烏丸下立売~府庁前~堀川下立売~堀川中立売まで開通していました。

その後、1900(明治33)年には堀川中立売から西へ、北野天満宮の手前の下ノ森まで開通し、天満宮の参詣客の足となりました。

 

そして1901(明治34)年には、寺町丸太町から寺町通をさらに北へ寺町今出川~河原町今出川~出町橋が開業し洛北方面や鯖街道から市内への交通機関として活躍しました。
 

12月7日・8日 春日会主催上京区電車物語で配布のチンチン電車ペーパークラフト底面の出町線解説 (伏見チンチン電車の会製作)


出町線は丸太町通の少し北側からは単線で途中に広小路と寺町今出川に行き違い線がありました。

また南側の寺町二条からの従来線ともつながっていましたが、運転系統は寺町丸太町~出町橋間の折り返し運転でした。

さらに1903(明治36)年には、出町橋から三宅八幡を結ぶ現在の叡山電鉄とほぼ同じルートで三宅線の申請をし許可も得ましたが着手に至りませんでした。
 

なぜ河原町通ではなかったのか…それは木屋町線と同じく広い河原町通がまだ開通していなかったからです。

 

京都の鉄道・バス 写真データベース より

京都電気鉄道出町線の寺町広小路(京都御苑東側)付近を南行する初期型車両。車体色は茶系の標準色ではなく水色と推測される。

行先表示は「まるたまちゆき」(右書き)とあり下には英語で「DOWN TO」「MARUTAMACHI」と書かれ、「先走り」と呼ばれた「電車告知人」の少年が添乗している。

 

 

京都御苑の東側の寺町通を走る狭軌の出町線は1918(大正7)年京都市電に買収された後、1924(大正13)年河原町通の整備に伴い広軌の河原町丸太町~河原町今出川~寺町今出川の市電路線開業により、西側から寺町今出川まで来ていた今出川線ともつながり、出町線は廃止されました。

 

また、木屋町線は出町線より3年後の、1927(昭和2)年に四条河原町~京都駅が整備され廃止されました。

 

伏見チンチン電車の会Facebook

※2022年2月 線路配置に関する補足が有ります。

 

 

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