前回『「数」とは言葉です』と書きました。
数学では計算の仕方を身につけるのと同じくらい大事なことに「説明(証明)」の練習があります。
別の言い方をすれば「計算」とは「数式で書いた説明」と言い換えることもできますからなおさらのことです。
言葉で説明するのがめんどうなので数式という形があるのです。
一部の算数(数学ではなく)教育学者はこう言っています。
「式には,その情景を表現するという機能がある」
「かけ算の順序に意味をもたせることによって、読み取りが正しくできているか判断できる」
でも
式は計算理解の筋道を示しているわけではありません。
これらは「数式で書いた説明」と同じように感じるかもしれませんが
捉え方には天と地ほどの違いがあります。
工学の数学では求めるものが計算できれば筋道はたいして重要なことではありません。
かつて、和算という日本独自の数学があり、現在の高等数学に肩を並べるレベルまで発達しました。
和算には計算式という考え方はなく
計算はすべて記号ではなく言葉で説明しました。
和算は江戸後期には日本全国でブームになり
実務をする役人(会計・技術者)には必修だっただけではなく
(江戸中期以降、新たに侍に取り立てられ人はほとんど計算(そろばん)ができた人でした)
趣味としてもあらゆる層(火消し人足から殿様まで)に広がりました。
ところが、明治なってから
教育現場では西洋数学が採用され和算は姿を消してしまいました。
それは数学記号という考え方がなかったからです。
和算で計算を示すときには現代語にすると
「7でわると2あまり,5でわると1あまり,3でわると2あまる最小の数はいくつ?」といった感じです。
そうです。
文章題そのものです。
今の算数教育が式から入るから文章題がむずかしいのか。
文章題自体がむずかしいのかは
子どもを今とは別の条件でトレーニングして実験してみないと分かりません。
(実際に和算では文章で式を表していたわけですから)
でも
実際の計算は「そろばん」を使いました。
二一天作五(にいちてんさくのご)→ 2で10を割るときは1を払って5を置く
二進一十(にっちんのいんじゅ)→ 2で20を割れば10
といったふうにです。
(わたしはそろばんを習ったことがありませんからよく分かりませんが)
実際にはそろばんの動きの手続きが計算式と同じ働きをしたのではないかと考えます。
今で言うと「アルゴリズム」と同じ考え方です。
西洋数学は教育という点では
考えることを数式という手順に変えてしまったことが革命的だったのです。
ここでは詳しく説明しませんが
サイエンスで言う「モデル化」という考え方です。
「モデル化」と「帰納法」によりサイエンスは誕生しました。
モデル化により
考え方を技術に
技術を段取りに変えることができます。
(その始まりとなったのが「物理学」と「天文学」です)
サイエンスを生み出すことで西欧の勢力は世界制覇をすることができたのです。
数学でも考え方を式で表すことで
考える手順を踏まなくても使い方さえ分かれば答えを出すことが可能になりました。
そのことが良かったのか悪かったのかは分かりません。
古い神社に行くと「算額」といって当時の和算家たちが
出題や解答を書いた絵馬が奉納されています。
西洋でも数学者たちの言葉が残されていますが
そこには数と戯れた人たちの息吹が感じられます。
最初は楽しみで始められた数学も
(家業で帳簿の仕事をやっていた人たちは分かりませんが)
今では子どもたち、大人たちを悩ませるものになってしまっています。