「必要悪」と「観察眼」 よい医療者、そして教師に必要なこととは? | 母親ひとり親の医療の学校の受験・修学手助けします

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医療者・教師、両方の仕事に共通するのは
働きかける相手の心身に踏み込むということです。
 
必要があって許されているわけですが、
それぞれ相手の命・人生に踏み込むわけです。
必ず何らかの形で相手に影響を与えます。
 
そのことを「(医療的・精神的)侵襲」と言います。
医療従事者と教師はそのために専門的な知識と技術を必要とします。
医療では意識され始め、対応が始まりつつありますが、
残念ながら、教職にはまだその意識がなく対応もしていません。
 
「知識と技術」を身につけるためには大事なことがあります。
「観察眼(ものをみる目)」です。
観察眼なしでは知識を技術も役立ちません。
 
自分の思いが善であっても
必ずしもすべての行いが善ではないからこそ
常に注意が必要です。
 
注意深く相手を見て
気づき、自分の行いを考える必要があります。
その基本が「観察眼」です。
 
観察眼がないとこんなことが起こります。
 
わたしもかつて(45年ほど前のことです)
入院中に善意の押しつけに遭ったことがあります。
きっと、看護婦(当時は)さんたちは全く悪意はなかったと思いますが、
善意のために苦しめられたことがあります。
 
慢性虫垂炎というありふれた手術だったので
(当時は慢性でも手術するのが当たり前でした)
彼女たちがわたしの手術後の回復の度合いが
常識とは違っていたことに気づかなかったのです。
1週間経っても熱が下がらず手術創の痛みが全くとれませんでした。
(医師さえも予想できなかったことですから)
 
そこで看護婦はわたしを励ますためだったのでしょうか?
20歳代なら抜糸していなくても病室から抜け出すくらいが当たり前だ
もう回復しているはずだとけしかけるのです。
 
わたしは日頃我慢しすぎるぐらいの人間だと思っていますが
それでも我慢できずに痛みを訴えると
まるで詐病のように取り扱われました。
苦痛だけではなく
侮辱された感じもしました。
 
きっと彼女たちに「観察眼」があったら
わたしが本当に予後の不調に苦しんでいたことがわかったはずです。
 
実際に症状が現われていたのですから。
でも、彼女たちは思い込みから気づこうとしませんでした。
 
その後、彼女たちも気づかされたと思います。
思っていた以上に予後の症状が改善されなかったという事実が示したわけですから。
(医師も真っ青になったくらい)
 
その後彼女たちは病状のことを全く口にしなくなりました。
それがわかった時に、謝罪といったものではなくていいのですが
自分の観察眼がなかったことだけは気づいてほしいものです。
 
きっと
入院していた病院の名前から、
彼女たちのきびきびした働き方からすると
彼女たちはエリート看護婦としての意識をもった学校の出身だと思います。
 
でも、残念ながら
自分たちがすることがすべて善という思い込みをもっていたのではないでしょうか。
気づきの第一歩は自分の限界を知ることです。