前回
韓国では学校教育での漢字全廃が行われたこと
そして
それが社会問題を起こしかねない性質を含んでいることを示しました。
常識的に現在の日本では漢語なしで社会が成り立たないことは明らかです。
戦後数十年の間に漢語を英単語に置き換える動きはありますが
学術語を除いて流行のようにつかわれることはあっても
全面的に置き換わることは難しいようです。
そうすると
カタカナ語がはいってくる以前の時代では
同音異義語で困らなかったかという疑問が生まれます。
ではどうだったのでしょうか?
実は公文書以外では漢語をつかうことが少なかったのです。
また
公文書ではつかわれる漢語が決まっていて
無制限に漢語がつかわれるわけではありませんでした。
学者や僧になるのでなければ
文字がつかえる人であってもこれまでの書式にしたがって文書をつくるだけです。
父親の話では(1927年生まれ)
ラブレターも書式が決まっていて手本があって
文は「~候」と結ぶことに決まっていたと聞いています。
それはさておき
江戸時代(おそらくそれ以前も)には同音異義語という日常生活では問題はほとんど起きなかったようです。
同音異義語が乱発されるようになったのは明治時代以降だったからです。
熟字訓に秘密があります。
熟字訓とは熟語単位での訓読みを指します。
小豆・為替・明日・・・ などのことです。
熟字訓と言うと
なぜこんな面倒なものがあるのか?
また、逆に仲間内だけで勝手に熟字訓をつくることは当たり前に起こることです。
ですから
国の考えではできるかぎり熟字訓は制限したいという考えがあり
「常用漢字表付表記載の熟字訓」として公につかわれるものの制限をしています。
なぜ
江戸時代までは同音異義語を避けるために漢語ではなく熟字訓をつかうという巧妙な習慣があったのです。
明治になってそれに気づかない、漢字かぶれの学者や軍人たちがやたら音読みを増やした。
そこには外国語を通じて概念を手際よく急いで翻訳しなければいけない事情があったことも事実です。
江戸の都市民(町人)たちは生活(商売)の発想から「実学」を生んできました。
その中の知恵として「熟字訓」はそれなりに意識的につかわれてきたのではないかと想像します。
ところが
都市民から自然に生まれてくる「実学的発想」は大公儀(幕府)瓦解で邪魔され
無学・形式的な理解の下級武士・地主出身子弟が漢語の乱発をしたのが明治・大正時代と言えましょう。
当時の日本語では外来語をそのまま使おうとしても自然に言葉を覚えることがむずかしかった現実もありました。
その典型が旧「陸軍」でしょうね。
軍内では外来語がすべて漢語に置き換えられました。
「方向転換把」
何だかわかりますか?
「ハンドル」
漢字をつかうときには音読みをする習慣でした。
「編上靴」→「あみあげぐつ」ではなく「へんじょうか」といった具合です
結局
彼らは西洋からの学問輸入が限界で
そこから「知恵」にまで高める力がなかったと言えます。
それから100年立ちました。
なし崩し的に漢語の代わりにカナカナ語という言い換えで目先のつじつまをあわせているだけで何も変わっていないようです。