オトナのための国語キソ22 どんな「古典」なら高校必修科目にふさわしいか | 母親ひとり親の医療の学校の受験・修学手助けします

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オトナのための国語キソ21 「高校古典」は不必要? 「漢文」は日本語です

を踏まえて初めて「古典は本当に必要か」を考えていきます。

 

まず

わたしなら必修古典の範囲を

「漢文(文語文)」と「江戸時代以後の和文」にかぎります。

 

もし

十分な時間がやりくりできなければ「文語文」を必修とします。

ここでいう「文語文」とは明治以降の漢語中心の文を指します。

 

そうでなければ

敗戦以前(国語改革以前)の日本の文章とのかかわりが全くなくなってしまうからです。

わずか100年前の日本の公用語が取り上げられない公教育っていったい何なのですか?

(別に必ず読み書きができるようになる必要はない

 必要な時に専門に学べる基礎だけでいい)

 

まず、

古典学習については確認しておかなければならない重大なことがあります。

「文語文法」では「古文(和文)」は読めないということです。

わたしは受験生のころからいつも体験上不思議に思っていました。

なぜ、文法で古文が読めるのかと。

 

気がついた人もいるかも知れませんが

学校でやっているのは正式には「古典文法」ではなく「文語文法」です。

 

名前が違うだけだって?

いや、根本的な違いがあります。

「文語文法」は公用語である「文語文」を書くための規則です。

読むためではありません。

 

わたしは国語科免許を持っていて36年間教えていますが

周りの教員が誰も知らなかったので

自分で気づくまで20年間かかりました。

 

しかも

小松英雄さんの文に出会うことができなければ一生わからなかったと思います。

(小松英雄さんは国文学の世界では最も誠実な学者だと思っています

 60歳をすぎてから真実を求めるために

これまでの自分の業績を一度振り出しに戻したのですから)

 

学問的には「文語文法」のようなものを「規範文法」といいます。

つまり、正しい文法規則があり、それを学ぶという考え方です。

「文語文法」はそれ学ぶための教科書と考えてくれればいいです。

文語文(漢語文)が公用語であれば書き方の規則を学ぶことが必要なのはいうまでもありません。

 

それに対して「記述文法」というものがあります。

これは書かれているものを読むための文法です。

規則を文にあてはめるのではなく

実例からどのように文を読めばいいかという文法です。

本当に「古典」を読むためには「記述文法」でないと読めません。

 

ですから

実は原理的には「学校文法」では古典(特に古文)は読めないのです。

じゃあ、なんで授業で読めているかと言えば

読むことができる文だけをやっているからです。

これまで教材として研究されている文だけならもっともらしく読めます。

 

実際

けっこう有名な作品でも歴史的に2、3例しかない言葉が出てくることがよくあります。

「国語大辞典(最大の日本語辞書)」でも例が少なすぎてよくわからないと書いてあります。

いわゆる活用の種類でも本当は実例がなければ確定することはできません。

(学問では理論的に何々活用のはずだと決めつけることはできません)

 

たいていの教員(専攻者を除くと)はそんなあやふやな上に乗りながらも

自分がそんなものの上に乗りながら教えていることを知りません。

知らないって怖いものなしですね。

 

このレベルのことはきちんとした教員養成システムができていれば

教科の教員は当然知っていることとなります。

 

それをしてないのはできないのではなく

むしろ利害関係のためではないかとわたしは「邪推」しております。

 

悪いですけど

こんなわけがわからない状態で議論すること自体が無謀です。

まっとうな反対派(古典不要派)ならこのことに気づいている人もいるかもしれません。

 

わたしには新しいアイデアがあり実際断続的に10年にわたって

これからの時代の古典を授業でやってきました。

 

名づけて「教養の古典」です。

本文を解釈する力(文法)を求めません。

選択授業ですが文化として「古典」を伝える授業をやってきました。

このような形でできるなら是非全員必修にしたいと思います。