高校国語新課程を巡って
古典不必要論が唱えられるようになっています。
影響力が強い「ひろゆき氏」のような人が
「受験生が無駄な労力を強いられていることに問題がある」という発言をしています。
わたしはツイッターのような主張の言いっぱなしで議論が省かれたメディアで粗い発言をする人はあまり信用しません。
この発言の場合でも古典の「学習」そのものが不要なのか?古典を「必修受験科目(国公立型)」にすることが不要なのか真意不明だからです。
わたしは古典の学習は必要だがこれまでのやり方は本筋とはズレているので大幅な変革が必要であっても
共通テストの「受験科目」にする必要はないと考えています。
その前に議論の前提として知っておく必要があることがあります。
今の「古典」理解には歴史の偽造があるからです。
古典は「古文」と「漢文」からなっています。
漢文というと「漢字」で書かれた文ですが
かつて漢文は日本の公用語でした。
豪族の連合ではなく日本に政府(律令国家)ができた時以来
昭和21年(1946年)の国語改革まで約1300年間
漢文か漢文体(文語文、漢字仮名交じり文)が正式な日本語でした。
いわゆる「古文(和文体、かな書きの文)」は非公式な内輪の言葉でしかありませんでした。
(もともと、和文体ではほとんど漢語を使わないのが普通です
漢字を使わないわけではないのですが漢字の熟語を使いません
さらに、古典の教科書では読みやすいように原文のかなを漢字に変えています)
漢文日本語(公用語)説は国文学専攻者には常識でなくとも
歴史学を専攻した者にとっては当たり前すぎる常識です。
(残念ながら歴史学専攻者には公式の日本語という発想は行き渡っていませんが)
旧制中学校では漢文は必修で
旧制女学校では古文を教えていました。
なぜそうなのかはいちいち説明するまでもないくらい当たり前すぎることでした。
当時は説明する必要もありませんでした。
だから、旧制で学んだ人はたいてい当たり前であったことの理由を知りません。
要は
古文で大々的に取り上げられている「源氏物語」も「枕草子」もいってみれば趣味の世界のものでしかありません。
決して日本の政治・歴史を語る事ができるものではありません。
(ただし「源氏物語」は政治・文化面では大きな影響を与えのは事実)
今の古典で習っている常識は本居宣長を中心とする国学者たちが
日本が「神国」であることを主張するために
日本の歴史から漢文の影響を取り去ることが必要になり
歴史を偽造したことからきています。
(本居宣長は医者で高度な漢文の知識を修めていたので確信犯です)
そんな流れで起きたのが王政復古(明治維新)です。
(その時代の雰囲気を島崎藤村が「破戒」でリアルに書いています)
ただ、フィクションから出た運動が日本を動かしてしまったので
明治政府は大変困りました。
真顔でフィクションが幅をきかせてしまったからです。
(王政復古では「神祇官(神社の元締め)」が「太政官(政府)」よりも上とされた)
さすがに
実際に政治を行う政府は現実にしたがい
文語文(漢語文)を公用語として使いました。
ところが
日本の敗戦で漢字・文語文は目の敵にされました。
それで、以前は日陰者であった古文がいつの間にか日本語の正統になってしまいました。
でも
説明できなくても古い教育を受けた世代は
漢文を教える必要を知っていました。
だから、現在60歳以上ぐらいの世代は漢文教育を受けています。
現在、共通テストの五教科受験では漢文も必修になっています。
しかし、すでに私学では文学部以外では漢文は受験に必要ではなく
古文も共通テスト利用受験では必要がなくなっています。
当然、高校での取り上げ方も受験の影響を受けています。
まず
高校での古典学習が必要であるかどうかの疑問の前に
過去、古典がどう学ばれていたか、いるかを知らずに
議論するのはどんなもんでしょうか。