算数掛け順は支持者と反対派が「正しさ」を主張し合う状態となっています。
わたしは現状の算数では限り掛け順にも道理があると考えています。
(盗人にも3分の理というなら5分くらいはあるかな)
実際、反対派は数学教育からの立場の人が多く
算数教育で完結させる立場の人は掛け順にメリットがあると考えているようです。
しかし
掛け順賛成派には子どもに意味のない押しつけをする傾向が強く
問答無用の押しつけという点ではいただけません。
それでも算数が目的とする「文章(生活)から式をつくる能力」を身につけるという点からすれば
力のない子たちにとっては半ば機械的に問題が解けるのは魅力があることです。
算数だけにすべての時間を使えるわけではない子たちにとってはありがたいことなのかもしれません。
現実に(名目ではなく)今の学習指導要領の内容からすれば算数は数学との橋渡しはなく算数そのもので完結するものです。
ですから
数学教育に結びつけたい人たちからすれば
「押しつけ」の問題だけではなく「数学」と結びつけられていない「算数」という問題点を抱えていることになりますが
数学派の人たちは算数を無視している傾向が強いので
もともとそのことは当たり前すぎて意識していないようです。
加えて
そんな状況を加速しているのが「教育の中央集権」です。
日本を除けば教育内容・方法まで中央官庁が細かな指示をしている国はありません。
官僚主義の見本みたいな「旧ソビエト連邦」でも当時の手記を読むと現場の裁量が大きかったこと分かります。
「掛け順」指導が学習指導要領にまで入り込んでいる現状では
(指導要領にしたがった指導書という形で)
融通のきかない教員であれば回りが見えなくなるのも当然でしょう。
目の前の成果を求められ場では一番たやすい方法を求めるのは無理もありません。
北米・西欧では呼び方はともかくとして日本で言う「算数」ではなく「数学」を向いた学習をしています。
方法としては「試行錯誤」という形で「考える」という形になるようです。
「数学教育」の世界では数学教育とは「考える科目」であるとしていますが
わたしは「数言語」を扱うための技術を身につける科目だと考えています。
その場合でも試行錯誤は必要な訓練方法だと考えています。
それでも野放しではだめです。
むしろ、道具として必要な部分は効率的に身につけさせる必要があります。
「押しつけ型」と比べると「試行錯誤型」で成果を挙げるのは受け止めるための準備、教員の力量・誠実さ(分からないことは分からないと認める)は段違いにむずかしくなります。
結局、普通教育ではそのためのコストが負担できないということになるのでしょうか。
酷な言い方ですが
北米・西欧の「算数」教育のレベルは日本と比べると目に見えて劣るとの在留邦人の評価です。
それだから「試行錯誤型」でも教員が避難されないようです。
いつの間にか日本では子どものトレーニングをどうするかよりも
どちらが正義かに話が流れてしまっているようです。
どの世界でもよくあることですが
開祖様よりも弟子、追従者の方が極端になるようです。