「孤独死」ってそんなに悪いことですか? 孤独を厭わず 相手を侵さない生き方 | 母親ひとり親の医療の学校の受験・修学手助けします

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家族が社会保障そのものだった時代

(子どもが親の老後を養うということです)

確かに

孤独死は反社会であり

もしかしたら犯罪だったのかもしれません。

 

でも

今の時代、自分から孤独を厭わない

人にもたれかからないことも

一つの生き方です。

 

人を憐れまないし、憐れまれない

というのも「内心の自由」と組み合わせになっているものではないでしょうか。

 

日本では学校に行くと(特に小学校)では

みんな仲良くしなさいと言われます。

わたしはこれを「なかよし主義」と呼んでいます。

 

社会人になってもこの考えの影響下にあります。

 

「なかよし主義」って本当によいことなのでしょうか?

人同士って仲良くしなければならないものなのでしょうか。

 

ただし

わたしはケンカしなさいと言っているわけではありません。

仲良くすることを強制するなということです。

みんな仲良くって、もし本気で言っているなら

その人は尊敬しなければならない人なのかもしれませんが

やはりよけいなことです。

 

たいていの人は本心ではなく

めんどうにかかわりたくないから仲良くって言っています。

そう思うのは

わたしの心がねじ曲がっているからなのでしょうか。

 

誰だって反りが合わない相手もいます。

触れあいたくないこともあります。

好き嫌いは人間の当たり前のことで

子どもだって同じです。

 

子どもでも大人でも守らなければいけないのは

・心の中では何を考えてもよい

・人を殺してはならない

・お互いの存在を認めあおう

 

の三原則です。

 

特に「仲良くしなさい」と「存在を認めあう」ことは

似ているようで全く違います。

「存在を認めあう」ことは

積極的な認め合いだけではなく

「無関心」という認め合いもありですから。

 

「無関心」は悪いことのようにいわれることも多いのですが

わたしは「無関心」は相手を攻撃するよりも

ずっと上等であると考えます。

 

実は、これって

ヨーロッパの近代国家の基本なのです。

宗教戦争が終わったことで中世が終わり

近代国家ができていったわけですが

 

近代は

宗教戦争を起こした行き過ぎた正義感を捨てようとしてきました。

正義感という上下関係をやめたわけです。

 

これは21世紀なっても大変むずかしいことです。

現在でも道徳で国同士の上下関係をつくろうとする国がありますが

戦争は社会現象であり、心理現象ではありませんが

それなのに20世紀の戦争をむごたらしくしたのは正義感です。

 

そのために

国際法(外交習慣)では

どんな大国でも小国でも対等であるという原則から始まり

後にこれが国民の間の関係にもなっていくのです。

 

それと

何を考えても行動に移さないかぎり責任を問われないという原則です。

何を信じようとも他人に害を与えない限り責めてはいけないということです。

 

よく誤解されますが

米国が怒ったのは日本国がパールハーバー(真珠湾?港?)でだまし討ちしたからではなく

日本国の方が先に米国と同盟国を攻撃したからです。

(国連憲章の侵略の定義も同じです)

道徳や正義の問題ではないのです。

 

国であっても個人であっても

互いに「内心の自由を侵さない」ということが近代という時代の原則になるのです。

(近代を否定する国はその限りではありません)

 

きっと、日本という国は「内心の自由」というものに鈍感な社会なのでしょうね。

 

「関心」を強制されない「無関心の自由」とかかわることですが

「孤独死」って悪いことなのかということです。

いつも気になっていたことですが。

「孤独死」ってとても悪いことのようですね?

「孤独死を許すな」といわれると

「孤独死」したらまるでその人も回りの人も犯罪者のようですね。

 

一人で死にたくない人が

一人で死ぬことを強いられるであれば

それは不幸なことですが

 

自分から選んだ「孤独死」は人に憐れまれることなんでしょうかね?

(まあ、後始末ぐらいは自分の責任でやっておけという話ならわかります)

 

そこによけいなお世話を感じるのはわたしだけなんでしょうか?

 

わたしは「人助け」を事業にしています。

それは押しつけにならない「人助け」というものを考える時がきているからです。

語るべきは「正しさ」ではなく「必要」です。