オトナのための国語キソ13 対等でなければディベートは無意味になる | 母親ひとり親の医療の学校の受験・修学手助けします

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前回の

米国でディベートが求められる特別な事情

で明らかにしたように

米国式ディベートは米国の社会と深いかかわりがあります。

米国以外の社会では「言葉での決闘」は成り立ちません。

米国でも法廷のようなレフリーがいて対等に勝敗を決める場でなければやはり成り立たないでしょう。

 

そもそも

討論での勝敗は

対等の人間関係というものを前提として成り立っています。

でも

私たちが議論するほとんどの場では、われわれと相手との人間関係は対等ではありません。

大抵の場合、偏った力関係の中で議論します。

そうした議論においては、対等な立場を前提とした論理的思考力は十分には機能しません。

 

相手が自分より強い立場だけではなく

弱い立場でもそれは起ります。

子どもと議論するとき子どもは場を読まないので最強の議論ができます。

相手との関係を考えずに自分の思うことだけを主張することができるからです。

大人にとっても最も強力な主張は一方的に自分が正しいと繰り返すことです。

(そして、力関係に気づいたときには議論ではなく黙ってしまいます)

 

だから

実際には一方的な主張であれ、力ずくであれ

相手を黙られることができた方の勝ちです。

 

これじゃ身も蓋もない話になってしまいますが

入学試験を受けるときにはこれに近い状態にあると言えるでしょう。

 

今時、医療の学校に入ろうと思えば「面接」「作文・小論文」が必修です。

特に患者に最も近い所で仕事をする看護師に対してはコミュニケーション能力を強く求めます。

 

受験者は圧倒的に弱い立場にあります。

試験官のことを怖れ出すと

すぐに思い浮かぶのは相手の機嫌をとるというやり方です。

 

最近の入学試験トレーニングはかなりマニュアル化していて

どこの予備校(学校)でも受験生にはやさしくしてくれますから

たいていの場合、「正解」というものを教えてもらえます。

(もしくは、受験生が求めます)

面接でもこう答えろという練習を丹念にやります。

 

でも

試験をする側からはマニュアル式受け答えは非常に不評なのです。

「面接」「作文・小論文」を行う意味がなくなるからです。

 

対等でないときに初めて自分の力が求められるのです。

相手が自分に対して何を求めているかを考え

相手に媚びるのではなく

相手の話題に乗るか、相手を話題に乗せるかしなければなりません。

 

ですから

「相手を読む力(他者理解)」と「自分を筋道立て話す力」の二つを手に入れる必要があります。

無条件の論理的思考能力ではなく

条件を押さえての筋道を説く論理能力です。

国語教育では「場を読む」「相手の気持ちを推し量る」ことを強制するわりには

相手を自分とは違ったものであるとする発想がないので「他者理解」はいいかげんです。

(同じと考えなければ「場を読む」「相手の気持ちを推し量る」という方法は成り立ちません)

 

本来、これこそ言語(国語)能力の華ということができます。

相手に媚びるのではなく相手に見せる(聞かせる)のです。

言葉の訓練は突き詰めればそのためにするといっていいでしょう。

わたしの言葉(日本語)の訓練の目的は

難問を解くのでもなく、相手を説き伏せるのでもなく

どうやって話を成り立たせるのかを基本しています。

 

実は、高校生を相手に面接練習していたころには

普通にやるような上手に面接を受けるという練習をしたことがないのです。

取り上げるのは

「自分がいったい何をしたいか」だけです。

自分が目指すもの、生きることをどれだけ真剣に話ができるかだけです。

 

もともと、人を相手にして正解というものはありません。

それでも、自分の話にどれだけ相手を乗せて聞いてもらえるかが必要です。

そのためには、トレーニングをする側も面接練習のときだけではなく

普段の科目のトレーニングをするときの問いでも

そのことを意識している必要があります。

それが人間が人間をトレーニングするということなのです。

これだけは将来どんな機械を使おうがどんな方法を使おうが変わることはないのです。