共通テストの今後 「伝えること」と「文意の解釈の自由」をめぐって | 母親ひとり親の医療の学校の受験・修学手助けします

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今年も大学入試共通テストの時期がやってきました。

様々な議論が出てきているようですが

肝心のことだけが的外れであるように感じられます。

 

『ことばの危機 大学入試改革・教育政策を問う』という本の書評に大変興味深いものがありました。

 

かなり長いので要点だけ引用(「」内が引用)

 

☆ならば「国語」じゃなくて「日本語」を教育すべきでは?

「ことばに危うさを感じるなら・・・まずは「日本語」(の運用技術) の教育へと改革を目指してはいかがか。

分かりやすく伝えたり、美しく表現したり、はコトバの基本であろう。

その根を張らずに「論理」も「文学」も開花は難しいのではないか。」

 

*ここでは新課程「文学国語」と「論理国語」の議論ことを指しているようです。

 

 「本書の議論には、読解力への危機感が底流にあるものの

「考える手段としての読解」ひいては「書くことが思考そのものであること」に十分フォーカスされてはいない。・・・

文章は、読み解くいぜんに「確実に伝える」ためのものであって

そこに潜む文意の解釈は読者の自由である(ことを想定して書く)のが日本語の(いや、言語の)基本なのではないか。

そのさきに文学とか実用文(論理表現)が派生するのではないか。」

 

*大学教授・学生が平気で読めない文章を書くのはこれが理由なのでしょうか?

 

「・・・「多様、多重、多面」という言語のもつ性格を、試験として設問・解答させるなら

その解答もまた「多様、多重、多面」になるはず。

正解は、まさに一つにはならない。

・・・もとのセンター試験も、今後の共通テストも(記述式重視)、高校国語の改革(論理と文学に分割)も

結局は、恣意的に正解を想定する出題者・採点者の都合に左右されることに変わりなく

”改革感”をアピールする恣意性(もっというなら偽善的)を感じてしまう。」

 

どんな文章でも(文学でも論文でも)書き手の内心を共有できていないかぎり

書かれてしまったものは読み手の自由に任せるしかないのです。

特に事実や論理を伝える文章では実証という確認方法がありますが

感情を伝える文章であれば読み手の自由はなおさら広がります。

 

読み手の自由を認めるなら

表現する、伝えるということを突き詰めれば

書き手が読み手に要求するものは

事実でも論理でも感情でもなく「書き手の意図」です。

表現は意図があってするものです。

自分の意図をより伝えることができるのがいい文章だといえます。

 

自分と読み手は内心を共有できないという

当たり前すぎることから

互いのせめぎ合いの中に伝えるという行為が成り立っているわけです。

 

そのせめぎ合いは互いの共通のものが少ないほど厳しいものとなります。

全く習慣・信条が違うものであればばおさらです。

 

最近日本では「個性」や「違い」を口にする人が多いのですが

どうもその軽い論調には違和感をもちます。

 

互いのせめぎ合いのないところに「個性」はあるのでしょうか?

相手を認めるということはそんなにたやすいことなのでしょうか?

何となくみんな違ってよかったねで

せめぎ合いをもたない「個性」などに「違い」はあるのでしょうか?

 

せめて大学を高等教育というなら

伝えることの厳しさ困難さを見据えた上での

互いの甘えに寄りかかったものではない

真剣な日本語技術の訓練を求めたいものです。