尊厳とは人としてのあり方 法でも理屈でも決して縛れない「尊厳死」 | 母親ひとり親の医療の学校の受験・修学手助けします

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だれでも見たくないものから目を背ける

人ならば当たり前です。

 

見たくないものを見る

これが勇気の始まりで

 

そして

最後の勇気です

 

勇気をもって

見たくないものを見る人は

成功者となる

 

しかし

いつしか

また

見たくないものを見なくなっている

 

ある時

自分が見たくないものを避けていることに気づく

 

しかし

再び

見たくないものを見ることができるのか

 

功成り名を遂げていれば

なおさらだ

 

それでも

自分にとっての終わりの時に

 

再び

目を見開くのが

最後の勇気だ

 

 

古代ローマの家長(一族の長)は

自分に衰えがくると

自分から命を絶ちました

 

人間を死すべき者と考える彼らは

家族を集め

よく生きたことに感謝し

その前で命を絶ちました

 

わたしはこれが「尊厳死」の由来だと考えます。

欧米の考え方の底には古代ローマが住んでいるのです

 

古代ローマの家長たちが衰える前に死を選んだのは

彼らの強すぎる権限にあったのでしょう

 

財産は当然のこととして

法によらず家族の命さえも左右できました

 

だから

現実主義者の彼らは

自分の判断が衰える前に自分の死を選んだのでしょう

過ちを犯す前に。

 

わたしは「尊厳死」の是非を問う気はありません。

尊厳とは人としてのあり方ですから

生きながらえようとも

死を選ぼうとも

法でも理屈でも決して縛れないもの

他者が干渉できないものです。

 

でも

ローマ人の生き方が尊厳死の由来なら

 

たとえ

それが習慣だったにせよ

人生の最期に衰えという見たくないものを見る彼らは

何とも勇気に満ちた人たちだったのではないでしょうか。