蒟蒻(こんにゃく)問答 「理解」とは「誤解」? 表現に必要なこととは | 母親ひとり親の医療の学校の受験・修学手助けします

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蒟蒻問答…「的外れで噛みあっていない論争のこと」元は古典落語の「蒟蒻問答」から出た言葉

 

長くなるので詳しくは

蒟蒻問答(こんにゃくもんどう)のあらすじとオチ 修行僧と問答の意味について

 

必要なことだけ説明しましょう。

 

雲水(修行僧)は和尚になりすました男に問答を仕掛けます。

禅宗における問答とは言葉での決闘と理解してください。

雲水と男は手ぶりで「会話」することとなります。

 

雲水は男が無学なことを隠そうと無視するのを無言の行であると勝手に勘違い。

身振り手振りで問いかける。

雲水が両手の指を付けて小さな輪を作ると

男は腕も使って大きな輪を作り

それを見た雲水は平伏する。

しからばと10本の指を示すと

男は片手を突き出して5本の指を示す。

再び雲水は平伏する。

最後に雲水が指を3本立てる様子を見せると

男は片目の下に指を置いた。

そこで僧侶は恐れ入ったと逃げ出す。

 

これだけでは雲水がなぜ逃げ出したのかまったくわかりません。

雲水と男が互いに勝手に相手の手ぶりを勘違いして

学がある雲水が無学な男にかなわないと思い込み逃げ出すところに面白さがあります。

 

◎雲水

途中から無言の行と気付き、こちらも無言でおたずねした。

『和尚の胸中は』と問えば『大海のごとし』。

では、『十方世界は』と問えば『五戒で保つ』と。

最後に『三尊の弥陀は』と問うたところ、『眼の下にあり』とのお答えでありました。

とても拙僧がおよぶ相手ではなかった。

 

◎男

あの坊主はふざけた奴だ、途中で俺が偽者でただの蒟蒻屋だと気付きやがった。

『お前ん所の蒟蒻は小さいだろう』とバカにしやがるんで、『こんなに大きいぞ』と返してやった。

野郎、『十丁でいくらだ』と聞くから『五百文』と答えたら、『三百文にまけろ』とぬかしやがったんで『あかんべぇ』をしてやった」

 

この二人の(手ぶりでの)問答は全くかみ合っていません。

完全に互いの手ぶりを誤解しています。

ところが

誤解がそのまま互いの理解になってしまっています。

誤解のはずなのに対話が成り立ってしまう。

 

これは笑い話(落語)ですから

そのためにする話です。

しかも、言葉のやり取りではなく身振り手振りのことだから。

と考えるでことしょう。

 

実際の対話というものは基本的には誤解を含むという点では

蒟蒻問答と同じようなことが珍しくないのです。

 

ところが

特別に厳密な内容でないかぎり

なんとなくでも対話は成り立ちます。

 

正確に理解を求めるためには

法律文章や論理で導出された文章(論理的な程度ではなく)が必要になります。

残念なことに国語教育ではそんな発想は完全に無視されています。

高校「論理国語」もそんな考え方の上には作られていません。

 

AI(人工知能)の判断基準の中に

相手がAIだと知らずに対話が成り立つというものがあります。

ここでは誤解であっても互いに理解できてしまうという現実がありますから

はたしてこれが対話であってもそこに知能があるかという議論があります。

 

言ってみれば

特別に吟味された文章以外では

結果オーライの状態でわれわれのコミュニケーションは成り立っています。

文章と言うよりもわれわれの経験や類推が支えるところが大きいのです。

相対の場合、ノンバーバル(非言語、身振り手振り)表現が文脈理解に無視できないことも分かっています。

 

ここでわたしが言いたいのは

どんなときでも間違いなく相手に伝わる厳密な表現をしなさい

ではなく

必要な時に必要なだけの精度でのコミュニケーション技術をもち

使い分ける能力をもてということです。

 

そのためには学校教育ではこれまでのものではない「論理学」や「修辞学」といったものをどう教えるか

どう身につけさせるかということが必要になります。