論理学の新しい考え方1 キリスト教神学概念からの脱出 「演繹」をめぐって | 母親ひとり親の医療の学校の受験・修学手助けします

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『高校新課程「論理国語」をめぐって』への追加編です。

「帰納」「演繹」の概念をとらえ直す。

今回は論理学での推論の中心となる「帰納」「演繹」を取り上げます。

わたしの考えは「野矢茂樹」さんの考えのわたしなりの理解によります。

※「新版 論理トレーニング(野矢茂樹)

 

普通にいう「帰納」「演繹」はヨーロッパの神学とその影響から生まれたものです。

論理の正しさを決める根本に神がかかわっていました。

「演繹」は神学そのものですが

「帰納」も神学に対する経験論として生まれたかぎり神学と無関係ではありません

現在、「帰納」「演繹」を使うときに

キリスト教の神学概念の影響を論理学の方法から減らすのは必要なことです。

 

高校での「倫理」では西洋思想を教えるために「帰納」「演繹」を取り上げないワケにはいきません。

でも

「倫理」の教科書は西洋哲学の解説ですから仕方がないのですが

「論理学」は西洋哲学の受け売りではいけないのです。

 

まず「演繹」です。

キリスト教哲学では演繹とは神の目から存在を見た見方です。

一般には

「一般的・普遍的な前提から、より個別的・特殊的な結論を得る論理的推論の方法である。

前提が間違っていたり適切でない前提が用いられたりした場合には、誤った結論が導き出されることになる。」

と説明されています。

 

キリスト教神学ではこの「一般的・普遍的な前提」とは神そのものを意味していたはずです。

「一般・普遍」とは神の別名です。

もともとは神の目からみた論理が「演繹」だったはずです。

難しくいえば演繹は「論理」ではなく「実在概念」ということができます。

つまり、演繹とはヨハネ福音書の最初の言葉にあるように

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」ということです。

 

有名なデカルトの神の存在証明の一つに(三つあります)

神というものは「オールマイティー(全知全能)」であるから

神というコトバには存在も含まれている。

だから

神は存在する。

(実はこれは同じ言葉の繰り返しにすぎないのですが)

突き詰めていえば「正しいから正しい」ということです。

神が正しいとするものが正しい(と権威者が言うことを人は信じる)。

 

ただ、おもしろいのはデカルトは帰納でも神の存在証明をしていることです。

「わたしが知っているかぎり

すべての民族は神の観念をもっている

だから、神は存在する」

 

しかし

現在の論理学では演繹は「実在概念」ではなく、言語(概念)規則であるという風に変化しています。

言語規則とはすなわち言語上の集合を示していることになります。

「演繹」が言語規則であるからには定義が正しければ証明不要で正しいことになります。

(言語規則なら当然ゲーデルの「不完全性定理」の対象になる

ということは、演繹では真偽が決められないことがあるはずですが)

 

よく取り上げられる証明に

「哺乳類」は卵を産まない。

鳥は卵を産む

だから、鳥は哺乳類ではない。

 

ここでは、哺乳類の定義の中に卵を産まないが含まれています。

だから、哺乳類の概念には鳥は哺乳類ではないことが含まれています。

これが「言語規則」の意味することです。

 

普通教育で「基礎論理学」を取り上げるなら

まず、「演繹」がまだ根にもっている西洋文化の影響を減らし

言語規則として使い方を整える必要があります。

 

長くなりました。

「帰納」は次回に

※論理学の新しい考え方2 サイエンスは「帰納」から生まれた もっとも実用的な論理