日本ではほとんどのオトナが(専門家も含めて)理解していませんが、能力教育と才能教育は全く違うものなのです。
では、才能教育と能力教育の最大の違いとは何なのでしょうか。
才能教育には限りがなく、能力教育には限りがあるという事です。才能は絶対的な競争の世界です。
能力教育には標準があります。標準をクリアさせることが能力教育と言い換えてもよいと思います。能力教育に競争は必要ないと言いませんが、標準をクリアさせるという目的の限られた範囲の競争になります。
一見、才能教育はすばらしそうに見えますが、それは人並以上の才能を持った人にだけいえることです。しかも、成功するのはごく少数の者だけです。競争に加わったほぼ全員が落ちこぼれます。本来才能教育とは一番を求めるものだからです。
いや、努力してみなければわからないという人もいます。確かに努力で一流になったといっている人もいます。それは一見「努力は人を裏切らない、人は努力で才能を発揮できる」という考え方の証明のようにもみえます。
しかし、残念ながら努力できるというのも才能の一つなのです。
プロ中のプロにコンサートピアニストがいます。幼児のころからの訓練と才能がなければ不可能な仕事です。
文筆家でピアニストの青柳さんの話ではたいていのコンサートピアニストは精神を病むといっています。
俗に「クラシック(音楽)は音を外すな。ジャズはリズムを外すな」というそうです。
当然、将来のコンサートピアニストは幼児の頃から間違わない練習を徹底して受けます。
人間は間違うようにできています。(これが機械との最大の違いなのですが)それに反した訓練は人の精神をむしばむということなのだそうです。
ですから、才能教育を受けるためには覚悟がいります。オトナであれば自分の意思で選ぶわけですから意見はしません。
でも、未成年(特に14歳以下)の子どもは自分で選ぶことができません。子どもに選ばせるオトナは自分が選ぶ以上の覚悟が必要なのです。
本題です。
私は高学歴化には賛成です。これからの時代高い能力を持たなければ高い収入を手に入れることはできません。
しかし、ほとんどの人にとって必要なのは能力教育であって、才能教育ではありません。
本来、高等教育(大学)は才能教育を意味します。文部科学省が大学と名乗るのを許せば(大学設置基準というものがありますが)高等教育としているようですが、残念ながら大学生の90何パーセントが受けている内容は高等教育ではありません。
彼らが実際受けているのは能力教育(専門教育)なのです。名前なんかどうでもいいじゃないかと思う人もいると思います。確かにそうです。でも、それなら費用が高すぎるのです。
まず、私の考えでは小中高ではっきり能力教育という考え方に基づいてきちんと訓練をすれば、普通に今の真ん中ぐらいの大学のレベルは高校でクリアできると思っています。その分むだになっています。
また、専門学校と同じ内容をやるとしたら、大学は大学設置基準のため必ず専門学校よりもかなりが費用が高くつきます。私はその差額分の費用を払う必要がないと思っています。
能力教育と才能教育をきちんと分ければ今より費用・時間の無理がなく、そして、意味のない競争を強制されなければ子どもたちも苦しむことが減ると思います。