ここは唐臼小屋の跡。今は石組みで囲まれて祠でもあったのかと思えますが、大きな杵(きね)を水力で動かして石を砕いて粉にしていたそう。どんなものかと検索したら九州の伊万里焼の唐臼がヒットして、餅つきの杵をししおどしにしたみたい。カッコーン!でなくどんな音がしたのかなぁ?



( * ̄▽ ̄)v- 東濃では土岐市だけでも窯元が260軒、商社が120軒、美濃焼に携わる事業所が700軒もあるのだそう。窯元も志野焼や織部焼などに細分化されていて、美濃国の主産業になってます。おおもとは織田信長が陶工の加藤一族に出した朱印状が始まりで、粗悪な模造品を締め出す役目も果たしました。茶器が庶民向けでなく大名のステイタスシンボルになったのはそれだから。産業として保護しつつ、安価な大量生産品にはしなかったのですね。


 隣の9号窯跡には「随縁」の石碑。ここで1930年(昭和5年)に荒川豊蔵氏が筍の絵が入った古志野の陶片を見つけたそう。名古屋で同じ絵の入った古志野を見ており、瀬戸で焼かれたものと紹介されてましたが器の裏側に付いていた土が美濃のものじゃないかと思っていたのが的中したんすね。志野焼が美濃の発祥と判明したこと、それを見つけたことを「随縁」と呼んだそうです。


 この随縁の石碑の向かいから庵(住居跡)に上がる。立派な石垣の上にあり、今は向かいに公衆トイレもあります。母いわく「紅葉は無かった」そうで、後から植えられたのかな? よく覚えてるのは「ササユリの花がよく咲くところだった」なんですって。


 日陰になってるのは高いところで紅葉の葉が重なり合って日覆いになってるからで、真夏に来ると木洩れ日が鮮烈でしょうね。まだ来た事がないので今年は行ってみよう。晩秋でもまだ青いところがあり、見上げると不思議な色合いでした。


 こちらが裏口になる。ここは垂れかかる紅葉の黄金色が綺麗でした。


( * ̄▽ ̄)v- ここで見かけたのはお茶の花と山茶花とマムシグサの実。ポピュラーですがいい風情すね。

 裏口から中に入る。土間の両側に座敷や居間がありますが、上がる事はできません。和紙の笠をかぶった照明がいいですね。


 ここにも荒川豊蔵氏のスケッチがパネルになって置かれてる。淡いタッチでとてもきれい。



 ここに窯や住居ができたのは1933年(昭和8年)だそう。土間や外から室内を見られますが、昭和初期の雰囲気が何だか良いなぁ。



 土壁と古民具が落ち着きますね。冬は冷えそうだけど夏は涼しいかな。泊まってみたいと言うか暮らしたい(笑)  ここは荒川豊蔵氏の本宅というわけではなく、焼き物づくりの時に過ごしていたのだそう。何だか羨ましいなぁ・・・


( * ̄▽ ̄)v- 興味深く見るのはこれ。昔は襖や屏風の内貼りに古い書きつけを使うことが多かったけど、荒川豊蔵氏はそれを気に入ってあえて表装せずそのままにしてたんですって。こういうのは横溝正史の「八つ墓村」や「獄門島」で金田一耕助が推理の糸口にしてて、イメージは出来るけど現物を見たのは初めてでした。和紙で丈夫だから内貼りに使われたんですね。読み解くと面白そう。


 何か歴史的な新発見とか、埋蔵金のありかとか書かれてないかな? 古い怪事件の記録だったりだといいなぁ(笑)


 これは愛宕神社の火災除けのお札だろうか。焼き物には火がつきものだけど、木造の日本家屋には恐いものですね。


 ちょっとした電球も工夫ひとつでイイ感じになるんすね。後ろの土壁に吹雪のように浮いて光って見えるのは藁屑か。混ぜ込んで壁にするのだな。意図せず装飾になってました。


 土間を抜けるとこちらが玄関。母いわく昔は石畳は無かったそうですが、いい眺めですね。木立の間から日射しが降ってきてました。


 玄関から見下ろすお風呂場は、今は東屋になってます。日射しの射し具合がいいっすね。ここが別荘ならずいぶん贅沢な敷地の使い方ですね。暮らしてみたいと思う眺めです。