( * ̄▽ ̄)v- マロリーとアーヴィンの遭難についてはずいぶん前に記事を書いていて、今回のNHKの「映像の世紀バタフライエフェクト」はその振り返りだけでなく新しい収穫もありました。


とりあえず1999年にマロリーの遺体を見つけた捜索登山隊のノンフィクションはこれ↓ 「そして謎は残った」というタイトルで、ショッキングな表紙ですがこれがエヴェレスト北壁の標高8160m地点で発見されたマロリーの遺体。もう少し上のファースト・ステップの基部でアーヴィンのアイス・アックスが見つかっていた事と、1979年に日中合同隊の王洪宝というクライマーが「8100m付近で英国人の遺体を見た」と証言していた事から初めはアーヴィンの遺体かと思われましたが、まさかのマロリーだった。これは42記事にも及ぶのでよほどお暇な方はよかったら。自分でも読み返すのは大変っす(涙)


http://ameblo.jp/otoko-bana/entry-12176696108.html 


 番組では英国の第2次遠征隊のノエル大尉が撮影した記録映画の一部が流され、映像で動いている遠征隊員を見たのは初めてでした。極地でも英国紳士感あふれるいでたちで、現代の装備とは全く違いますね。劇作家のジョージ・バーナード・ショーはこれを見て「アイルランドの低山にピクニックに行くような格好やないか!!」とおののいたそう。西欧の登山家は昔はこんな服装が当たり前だったんですね。


 英国が初登頂を目指したのはこのルート。ベースキャンプはロンブク氷河上の標高5100m付近で、そこから上に前進キャンプを6~7つ設営して高度順化しながら登ろうとしたんすね。ネパール側の南東稜からだとベースキャンプが5300m付近で、前進キャンプは4~5ヶ所作るものだそう。この北東稜の方が距離が長く、今は古典ルートとかマロリールートと呼ばれます。標高7000m付近のノース・コル(北の鞍部)が第4キャンプで、巨大な氷瀑がひしめく場所だそう。


 これはノース・コルからさらに上に登る隊員を下から撮った映像。モノクロ映像だけど記事に載せるために色彩を濃くしたら淡い青色が出て驚きました。氷瀑もしくは雪崩の跡みたいに見えますね。ここからどうやって登るんだろう?


 当時の鋲靴の底のクローズアップもありました。これで固く締まった雪面や氷の上を歩いてたんですね。現代のアイゼンとはずいぶん違います。


(* ̄ー ̄)v-  これは6月6日の早朝にノース・コルの第4キャンプを出発しようとしてるマロリーとアーヴィンをオデール隊員が撮った写真。遠征隊は4月28日にベースキャンプを設営して頂上を目指していましたが、ここまでにかなり日数がかかりました。

 この年はモンスーンの到来が遅く積雪も少ない方だったと言われますが、高度7710mの第5キャンプ、8230mの第6キャンプまで設営できたものの度々ブリザードに見舞われ撤退を余儀なくされていました。当初の予定では頂上アタッカーはマロリーとジェフリー・ブルース、ノートン隊長とハワード・サマーヴェルの2組で、最初に挑んだマロリー組はブリザードに阻まれ撤退。次に登ったノートン隊長組は途中でサマーヴェルが体調不良で登るのを止め、ノートン隊長が気合いで頂上直下のグレート・クーロワール(巨大な岩溝)の8572m地点に無酸素で到達。これは1953年のヒラリー卿とテンジン・ノルゲイの初登頂までは人類が到達した最高点でした。

(* ̄ー ̄)v- そのノートン隊長も無理がたたって雪盲になり、隊員はいちどベースキャンプまで撤退します。サマーヴェルとアーヴィンには高地性の肺疾患の兆しもあったそうですが、遠征じたいの撤収も視野に入った時にマロリーが「酸素ボンベを使ってもう1度だけ挑戦する」と進言したんすね。前の年にはもう来ていたモンスーンもまだ来てない。けれどもいつ来てもおかしくないので、本当にこれが最後のチャンスだったよう。マロリーはパートナーにアーヴィンを選び、それまで重視されていなかった酸素ボンベを背負って出発しました。


 マロリーはもう37歳で、まだ子供たちも幼かったので3度目の遠征に加わる事には逡巡もありましたが「他の人間に登頂されたら良い気分ではないだろう」と知人への手紙に書いていました。また同時に「これは戦争で、生きて戻れるとは思っていない」とも。


 下の方から上部の様子を見る他の隊員。雪がないところは細かい瓦礫がみっちりで、これが地面に固く凍りついてるのだそう。今はエヴェレストの上部に100体以上の遭難者の遺体がそのまま残されてる事は有名ですが、この時代には第1次遠征からの英国隊しか入山していないので無かったかと。いま遺体がたくさん放置されてるのは、凍りついて地面と同化してる為でもあるそうです。


 6月8日の12:50までのマロリーとアーヴィンの行動は分かっています。ノース・コルの第4キャンプから第6キャンプまではシェルパや他の隊員が行き来して、上にいるマロリーから伝言メモを受け取ったりしてたんですね。最後にサポート役のノエル隊員が受け取ったメモには「6月8日の午前8時には頂稜にいる」と書かれていました。

(* ̄ー ̄)v- 第5~6キャンプは2人以上過ごせるほど大きなものではなかったので、サポート隊員はテントで一緒にいる事はできない。オデール隊員はマロリーに頼まれた物(調理用ストーブを落としたので代わりを依頼した)を運んで第5キャンプに登り、そのまま第6キャンプを目指します。オデールが頂上アタッカーに選ばれなかったのは高地順化に時間がかかったからで、この時は絶好調。デスゾーンと呼ばれる8000m地帯を無酸素で行き来して、地質学者なので「世界でいちばん高い地層」で化石を見つけて喜びます。どんだけ強靭。

 その時だった。ふと上方を見たオデールは、「ファイナル・ピラミッドの基部に人影が近づいていくのを見た」。それは小さな黒い点で、少し遅れてもうひとつの点が後を追うのも見ました。それは「力強くテキパキと登っていた」そうで、ただひとつ不審だったのは時刻。マロリーの最後の伝言では「朝8時にその辺りにいる」と書いてあったのに・・・


 見えていたのはほんの一瞬で、2つの点はすぐに雲に隠れてしまったそう。このオデールの最後の目撃が「本当にセカンド・ステップだったのか?」と議論の種になりました。↓画像に虹色のラインを2本添えましたが、左側がノートン・クーロワール。グレート・クーロワールの中にあり、ノートン隊長が達した最高到達点がそこにあります。ノートン隊長は北壁をトラバースして頂上を目指してリタイアしましたが、マロリーは稜線上に出たと考えられてます。右側の虹のラインはホーンバイン・クーロワール。1963年に西稜から初登頂した米国のトム・ホーンバインが通ったルートです。登山家はこうして山に名前を残すんですね。


 近くで見るセカンド・ステップ。北東稜の最難所で、切り立つ30mの岩壁です。今は1970年代に中国隊が残したアルミ梯子があるそうですが、最後の最後でエグいですねぇ。


 現代のクライマーはこうやって登る。この梯子大丈夫なんだろか? マロリーとアーヴィンの足跡を推測するために梯子を使わずに「登ってみた」クライマーは複数おり、1924年のマロリーでも登れたと考える人もいますが、ラインホルト・メスナー御大は否定的です。


 後にもう少し下のファースト・ステップの基部で空になった酸素ボンベが見つかり、その近くにアーヴィンのアイス・アックスが「平らな岩の上に置かれた状態」で見つかった。少なくともアーヴィンはそこから登るのにアックスが必要ないと思って置いていったかも。そしてマロリーの遺体が見つかったのは、そこから少し下の斜面でした。


 マロリーの遺体は胴体にロープが食い込んでいて、アーヴィンとアンザイレンしていたと考えられました。複数の骨折と頭部に大きな損傷がありましたが、そんなに高い所から滑落した様子ではなかったそう。いつ、どこから滑落したんだろう? 登りの途中で? それとも下山中に?・・・・・・・


 オデールの目撃を最後に2人の消息は途絶え、ノートン隊長は本国に暗号電報でマロリーとアーヴィンの遭難と遠征の失敗を伝えます。後に捜索隊も出ましたが、マロリーの遺体は1999年まで発見されず、アーヴィンについては1933年に見つかったアイス・アックスのみ。ただ2009年にエヴェレストの航空写真にアーヴィンの遺体らしき6フィートの物体が写っていたとの話があり、そんな特定ができるのだろうか?とはちと疑問。


 1933年の第4次遠征隊でアーヴィンのアイス・アックスを見つけた人は、「そこでマロリーかアーヴィンが滑落して、対処する為にアックスを置いたのではないか?」と考えたそう。マロリーが滑落などする筈がないという見方は1924年から根強くあり、落ちたとすれば経験の浅いアーヴィンだろうというのが大半の見方でした。

(* ̄ー ̄)v- けれどもマロリーの死因は滑落死と見られ、北壁の斜面を落ちる時にロープが切れ、バウンドして岩に頭を強打したのが致命傷だったよう。1999年の捜索隊はアーヴィンは重傷を負わず、マロリーの死後に疲労凍死したのではないかと推測しました。


  1970年代に中国人クライマーの王洪宝が見たという「英国人の遺体」は仰向けで損傷は少なかったそう。発見されたマロリーの遺体はうつ伏せで、やはり8100m付近のどこかにまだアーヴィンが眠っているような。マロリーはその場に埋葬されましたが、まだ見つからないアーヴィンに申し訳なく思ってるかもですね。


(* ̄ー ̄)v- 番組で写真が引用されていた「INTO THE SILENCE」(沈黙の山嶺)という本を探したくなりました。これは1924年の英国隊のひとりひとりを深く掘り下げたノンフィクションで、民間人だと思っていたマロリーやサマーヴェルらも従軍経験があり、マロリーはもう息のない仲間を救護所に運ぼうとしたり、医師のサマーヴェルは大勢の重傷者のトリアージをしなければならなかったそう。

 エヴェレスト登山の黎明期にそれを担ったのは軍人や従軍経験者で、頂上を目指すことをアタック(攻撃)と呼ぶのはそれに依るんですね。隊はテントの中で、戦争中に士気を高めるためによく詠まれた詩を詠んだそう。マロリーも「これは戦争だ」と知人への手紙に書いていました。けれどもキャラバンの途中では道に咲いていた花を摘んで上着のボタン穴に挿したりしていたそう。決死の遠征でも解放感はあったようで、それを読みたいなと思いました。

 1999年の捜索隊が推測したマロリーとアーヴィンの遭難の経緯は複数のパターンがあり、私が記事に書いたのはこれ↓  最後に目撃されたのが登る途中か下山中かは分かりませんが、登頂は断念して引き返す途中に日没になり、照明器具を持っていなかったので安全な第6キャンプに辿り着けなかったのではないかと考えられてます。

http://ameblo.jp/otoko-bana/entry-12215181222.html