今日
生い茂る草木の傍で
一輪の花がゆらゆらと
青ざめて咲いていました


今日
生い茂る草のふもとで寛いでいたら
人間さんにみつかっちゃいました
わたしは俯いて青虫を食べました


今日
食事もそこそこ遊んでいたら
白いお花に食べられました
わたしは痛くていっぱい泣きました


今日
おうちへ帰ったら息子がいなくって
近くにいた白いお花に訊ねたら
お花がわが子のように青ざめました


今日
生い茂る草木の傍で
一輪の花がゆらゆらと
青ざめて咲いていました

はい、どうもミコレットです。

私はこれまでに読んだシェイクスピアの劇作で
ハムレットが2番目に好きです。(1番はロミジュリ)
特にハムレットの独白の場なんかたまりません。
本片手に、自分がハムレットになったつもりで
一人、声を張り上げて読んだりしています(笑)

そのハムレットの劇中にこんな有名なセリフがある。
“To be, or not to be: that is the question.”

あまりにも有名なセリフですが、これまで特に気になりもせずに
私が読んだ本の翻訳のまま意味を捉えてきました。

“このままでいいのかいけないのか、それが問題だ”
“生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ”

最近まで、どちらも後者の意味で捉えていたんですが
いろいろ調べているうちにどうやら2通りの解釈ができるみたいなんです。

“復讐するべきかしないべきか、それが問題だ”
“生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ”

の2つ。確かに、どちらの意味でも話はつながっている。
「I」などの主語が見当たらないことや、否定語で訳すか対義語で訳すか
「be」というどうとでも捉えられる言葉をどう訳すか
それに「~べき」などという言葉はどこにもないという意見もあるなど
日本語に訳するのはかなり難しいことだと書いていました。
例えるなら日本語の「勿体ない」を英語でどう訳すかみたいな?的な?

どちらの意味で捉えればいいんでしょうか。
劇中全体を通してみたら、とても復讐をためらうような精神状態では
あまりないような気もするから、やはり後者として捉えたいけど
いや、前者だよと言われれば、そんな感じもしてくる。
「怒涛の苦難に斬りかかり、戦って相果てるか」の部分だけをみても
どうも復讐すべきかどうかに悩んでいるようにもみえてしまう。
でも、ハムレットはその後延々と死について、死後について語っているように
やはり8:2の割合で後者の「生きるべきか~」の意味で言っていると思う。

しかしこのセリフで重要なのは、その解釈や、本来の意味などではなく
ハムレットが「To be …」と語り始めるときのインパクトの強さ
つまり観客に与えるインパクトの強さこそが重要ではないだろうかと
河合祥一郎は言っている。

あとこちらも有名、オフィーリアに「尼寺へ行け」と罵った場。
これにも2通りの解釈ができるという。
当時尼寺では売春が行われており、ただ単に
「おまえは売春婦がお似合いだ」と罵っただけなのか。
尼寺を修道院と訳し、ハムレットはオフィーリアを心から愛していたからこそ
彼女には、こんな政治的な、権力が支配する世界から離れてほしい。
「私(ハムレット)も含めて、ここデンマークにはあなたの高貴な身を心を
汚すものしかない。ならば修道院へ行き、一人身を神に誓うのだ。」
と、いわば愛情の裏返しとして理性が願ったものなのか。

世界のNINAGAWAが演出した「ハムレット」では、その狂乱な姿から
まるで「おまえは売春婦がお似合いだ」と罵っている方の印象を受けたけど
私の目は節穴ですか?捉え方が浅いですか?(笑)

そういうことでハムレットおもしろいですよ。
独白の場が本当にいいんです。あれぞ役者の醍醐味。
そんな私も毎週、競馬するべきかやめとくべきか、それが問題だ。
などとくだらない心の葛藤をしています。
だから今度から私のことを、ミコレット、そう呼んでください。

おちまい。

「死後の世界が恐ろしくて死ぬのが恐い」


表向きは「死ねば無になる」と言い張って自分を守っているが
正直のところ死後の世界を想像すると恐くなる。
もしかしたら地獄の業火に永遠に焼かれ続けるのでは。
永遠に足の裏をこしょばされたりするのでは。
簡単に言えば「死後も生きる」のではないか。
そう思うと死をためらってしまう心がじわじわ湧いてくる。
不思議ですよね。信仰をもたない私が信仰じみたものを持っている。


そして一番よく思うのが
死後も、魂はこの地に留まりさ迷い続けるのではないか
今、私はこの部屋に一人でいるが
もしや数十人の死者たちも私の傍に居座り
私の生活のひとつひとつを見ているのではないか
「私の生活」という賃貸が死後の商売になっているのではないか
“滑稽な住人”というキャッチフレーズで売りに出され
もしかしたら死後の不動産業のモデルルームとして扱われているかも。
ああそう思ってしまうと、途端にいろいろなことが恥ずかしくなる。
独り言を言っている姿や、音痴な歌声を聞かれている
オルガズムに達する姿や、何かしらのプライベートを
すべて見られているとなるとすべてを自粛したくなる。
だから一人でその「見えない者たち」に向かってよく話しかける。


「おい、そこにいるのは知っているぞ」
「滑稽か?おれの生き様はそんなに」


など、恐ろしいことにたまにではなくて、よく話しかけている。
そんなあんたが一番恐いって?いやいや大真面目です。
死後の世界を語ることは無限であり、真理などない。
とは言いつつも、いざその「見えない者たち」が
私の前に姿を現し、返事をしてきたときには
私は気絶してしまうでしょうが。
覚悟はしていても、そういうものが私は大嫌いですから。
本当に何十人も私の部屋に住み着いているとすれば
とりあえず、今月の家賃を分割でお願いしたいところ。


またシェイクスピアも劇中に死後を恐れるセリフを何度も書いている。
彼もまた死後の世界を恐れていたのだろうか。
そう思うとたまらなく嬉しくなった。
私もシェイクスピアも、同じ人間であったのだと。


見えないものに崇拝し、見えないものに命乞いをし
見えないものを愛し、見えないものを憎み
見えないものを憧れ、見えないものを恐れ
見えないもののために生き、見えないもののために死ぬ
人間をつき動かすもの、それは「肉体」ではない。
木々にすがりつくナマケモノ同然、私たちなど。
たえず何かに寄りかかって生きている。


私は恐怖によって。