赫々と昇る陽に顔を照らされ、海に向かう心は希望に満ち溢れている。

やがて眼前に大海原がどこまでも青く広がる。今日一日、何でもできるという万能感が、全身に満ちている。

海と戯れるのは、何と楽しいのか。岩礁から飛び込み、さながら魚のごとく身を海水に委ねる。水中眼鏡の下、小魚の群れが、身を光らせながら体をくねらせている。

 

 昼になる。塩水に引き締められた後のバーベキューは、至高の時だ。心地よい疲労感が心身を弛緩させる。快活な時間がずっと続くと感じる。

 

 再び海に入る。西に傾き始めた陽光が、水しぶきに七色の虹を作る。背中を照らす午後の光に、まだ時間はあると海との戯れを続ける。淡々と過ぎていく、時への焦りを心底に感じながら。

 

 夕刻の鐘が聞こえる。浜辺を後にすべき時が来た。過ぎ去った時をいとおしく思い、もう少しとどまりたいと思うが、すでに太陽は彼方の森に架かっている。

 

 陽は沈み、微かな残照ばかり、うねる波を黒々と浮き出す。「果たして、正しく時を生きてきたのか」という自問自答が、心を乱す。もちろん頬を掠める夕風は、その是非を教えてはくれない。

 

 とっぷりと暮れた帰途、それらの行為が「非」であっても、亡き父だけは許してくれるだろうという心に生じた燠だけが、行く先を照らしている。

                                                             

 大学時代オーケストラをやっていたとき、二人の後輩がいた。一人は岩澤といい子供のころからチェロを弾いていて演奏技術に優れ、音楽的にも深い知識を持っていた。また背も高くイケメンで周囲の女性も放っておかなかった。

 

    

 一方、根本という後輩は、初心者でチェロを始めましたが、豪胆で、怖いもの知らずの彼は4年間でかなりの上達を見せ、卒業時にはドボルザークのチェロ協奏曲という難局をクリアした男です。しかし、彼は猪首、ずんどうとした体で女生徒は縁遠いストイックな生き方をしていた。

 二人とも大学在籍から30年以上たった今でも市民、OBオーケストラに参加し、活発な音楽活動を続けている。二人のために、小さな物語(詩)を作り、フェイスブックに投稿しました。以下がその全文です。

 

 (予備知識)

 〇楽器の果し合いはバッハやベートーベンの時代から行われていた。どちらが勝者かはギャラリーの人が判断した。

 〇チェロは低音楽器なため、高音になるほど演奏は困難になる。

 〇チェロには4本の弦があり、低音からC線、G線、D線、A線とよばれ、それぞれの音に調音されている。

 〇根本は現在茨城県庁の50代職員であり、2人の子供と愛妻をもつ家庭人である。

 

 

 20数年前。梅雨明けのまぶしい陽光が降り注ぐ海食台には、人があふれていた。

        

 これから、チェロの果し合いが始まるのである。きっかけは一人の美女の取り合いである。その女性は、堤防に作られた台座に座って、その果し合いを眺めることになる。

            

 果し合いは、岩澤と根本という二人のチェロ奏者である。一番手の岩澤が防波堤にこしらえた演奏台に座ると、聴衆のどよめきは水を打ったように静まった。

     

 岩澤には自信があった。この一瞬に、これまでのチェロ人生のすべてを賭けると自覚すると、曲を弾きだした。いきなり24調の6オクターブにわたる急速なスケールを終えると、彼が編み出した奏法に移る。G線またはD線で甘い旋律をうたいながら、それらを挟むC線とA線は激しくバスと装飾音を彩る。聴衆には5声部の重厚なオーケストラにも聞こえた。

  「一台のチェロは、一つのオーケストラに匹敵する。」

 岩澤はその直前にある音楽雑誌の記事に、その言葉を載せていた。一つのバラードが終わると、5声部のフーガが続き、これこそ彼の編み出したテクニック、ハミング奏法が始まった。扇風機の羽は速く回転するため、時として反対方向に回転するように見える。この時岩澤は、右手をしなやかに、しかし急速に回転させ、4弦を急速に上下しながらコラールを奏でていた。まさに彼の右手は急速に動いていたため逆回転に見えていた。

     

 聴衆からどよめきが起こり、男性は失禁し、女性は破水するものが出ていた。「おれは現代のパガニーニだ。」彼はそう自負した。聴衆の様子を見て、自分の勝利を確信した岩澤は、最後の弦の内側に弓を入れる奏法で、低音の継続音の上に8オクターブ上のフラジオのメロディを載せ終わると、7オクターブを一気に下って、C線の開放弦で曲を閉じた。聴衆からは地を揺るがすような拍手が起こった。岩澤は美女のゲットを確信した。

 

       *                      *                      *     

 

 かわいそうなのは、それを聴くというより見せられた根本である。彼は震えながら、演奏台に上った。手足の震えは中気の人の痙攣にも見えた。「男として逃げるわけにはいかない。自分は自分のできることをするだけだ。」そう自分に言い聞かせると根本は、ゆっくりと全音符で音階を弾き始めた。聴衆はあまりの興奮のあとの彼がみじめに見えた。台座の上の美女も哀れで根本を見ようともしなかった。

         

 しかし、彼は一音一音をしっかりとビブラートもかけずに弾いていった。不思議なことに聴衆は新しい感動を覚え始めた。彼の音は単音で、初心者のそれを連想させたが、何かが違っていた。一音一音、音が上がっていく。

 それごとに人類50万年の黎明と進化を感じるように深い感動が伝わってきた。アウストラロピテクス、ホモエレクトス、ネアンデルタール人、ホモサピエンス。その上昇音には、それらの進化の本質がしみ込んでいた。

            

  わずか2オクターブの上昇の後、根本の音は下降に転じた。ドーシーラーソー・・・。一音下がるごとに、今度は人類が成しえたことへの感謝と、原子力や疫病、マイノリティ問題、夫婦別姓、政治的な腐敗、貧困などへの批判も含んだ、全人類の総括と課題を表現していた。最低音まで達したとき、もう聴衆は集団催眠にかかっているように沈黙していた。

       

 根本が謙虚に立ち上がった時、我に返った聴衆はまるで魂を抜かれたような状態で佇んでいた。しかし一人が我に返って拍手を始めると、全員が涙を流しながら拍手していた。

               

 

 台座の上の美女も泣いていた。もうどちらが勝者かは明らかだった。防波堤の横で聞いていた岩澤も、自分が演奏したときの興奮は消え去り、根本の演奏に吾知らず心を奪われていた。そして、根本の横に進み出て、肩に手をかけて言った。「俺の負けだよ。彼女を幸せにしてやってくれ。」根本は静かに立ち上がると岩澤を抱き寄せた。

     

 

それから時がたった。根本は茨城県庁に職を得て、家庭も持った。頼もしい子供も二人いる。彼の妻はもちろん、防波堤の台座に座っていた美女である。

                   

 給食? あんた小学生? ・・・と思われるでしょうが、大人で給食を食べている人間がいます。

 

と言えば、きっと小中学校の先生くらいだろう、と思うかもしれませんが、高校教員です。

 

    

 

 でも普通の高校の先生が、給食を食べるわけはないですよね。そう、定時制夜間部の教員なのです。

 

 16時45に登校し、20時25分に授業が終わり、20時35分に下校する。そんな夜間部生徒に交じって、「給食指導」という名目で給食を食べるのです。

 

 「指導するのだから無料で」、と言いたいところですが、名目はともあれ食事をするのだから、代償が必要ということで、一食350円程度ずつ、給料から天引きされるのです。

 

 天引きは仕方ないとして、何かの用事で、急にその日給食を食べられないとします。出張なり、年休なり、事情は様々ですが、その時は代わりに食べてくれる人を捜さねばなりません。

    

 メニューはいたって健全な食事です。 炭水化物、タンパク質、脂肪。バランス抜群! 牛乳も、ヨーグルトもつきます。管理栄養士さんのカロリー計算の賜物です。

 

 ところで、何かの用事で給食を食べられないとき、誰に給食を頼むか・・・それは、ちょっとした政治的行為になります。

 

 あるとき、自分の同僚が私用のため、急に給食が食べられないということになり、他の先生に代わりに食べてもらうことを頼みました、そして、その約束は履行されました。

 

 しかし、翌日登校すると机の上に350円が置いてある。

「そういう意味ではない。」

「いや、それをもらうと今後頼めなくなる。」

「いいえ、食べさせて頂いた以上は。」

・・・などと、二人の押し問答が続き、職員室全体が気まずい雰囲気になってしまった。

    

 対象者は、もともと給食を食べない予定の人で、家庭がない人、出張や年休の予定がない人に限定されます。予定ばかりではなく、皆が給食を譲られて嬉しいかと言うと、大抵はラッキーと思ってくれるのですが、人によっては「有難迷惑」+「時間の制約」となる場合もあります。

 

 実際、3時ごろ年休で帰ろうとしていたのに、給食を強引に譲られて6時まで帰れなかったという恨み節が、後から聴こえてくるときもあります。

 

 前校長の代わりに給食を食べていた教員が、その代金を前校長に支払っていたにもかかわらず、それが明らかにされず、「ただ飯教員」だ後ろ指をさされていたということもありました。

 

 

 私は、こんな時、若手のある女性教師に最初に頼むようにしています。この先生は大抵、快く引き受けてくれますし、自然体で普通に食べてくれます。もちろん、お金の話などしたこともありません。

           

 とはいえ、「若い女性に」ということを周囲から曲解される恐れもあります。「給食で色を釣っている」などと解釈されれば、自分の立場は危うくなります。

 

 しかし幸い、その若い女性の先生は、体育会系のあっさりした性格で、何の疑問もなく代わりに給食を食べてくれます。夜間部の生徒には女子も複数いるので、女性の先生の方が良いといいと思ったという論理も、正面に掲げることもできます。

 

 それでも、複数の先生が、給食を食べてくれる代わりの人を探しているときもあり、結局、それはちょっとした問題です。

 

 たかが給食、されど給食・・・。一食わずか350円でも、人の心は良い方にも、悪い方にも傾くのです。自分はひそかに、この事実を逆手にとって、「給食外交」を始めようとも思っています。

     

 前述のように迷惑に思う人もいることにはいますが、基本、「給食をおごってもらった人」は嬉しいはずです。一方、「おごってもらっていない人」から見ると、ずるいと思われる気持ちも分かります。おごられた人への嫉妬心が起こり、「食べ物の恨みは一生」というわけです。

 

 

 たとえば、自分がある先生に給食をお願いしたとして、出張が早く終わるなど状況が変わって、自分が食べられるようになったとします。(実際、出張は早く終わることも多いのです。)

 それでも、約束は約束だからと言って、自分はオニギリを1個食べて、その先生に予定通り食べていただくなんて、武士道的で美しくはないですか?

 

 ・・・桜は散るから美しい。給食は粛々と譲るから美しいと、捨て台詞を決めながら。

 

                        

 その猫は、ある家の縁側の向こうからじっと見ていた。

 

 その猫は少しも目をそらさなかった。

 

 その猫は、人間である自分を恐れなかった。

 

 その猫は、きっと自分の死も恐れていなかった。

 

 その猫は、自分のなすべきこと、これから自分に起こることを知っていた。

 

 その猫には、時間の概念がなく、ただ時の過ぎるのを俯瞰していた。

 

 その猫は、当たり前に起こることを、当たり前に思っていた。

 

 その猫は、感謝、憎しみ、焦り、どの表情もない清張なまなざしで、ただ私を見つめていた。

           

 

 その猫と散歩中の自分が向かい合ったのは、父が死ぬ前日のことだった。

 

 そのとき父の意識は病床の上で失われ、遠いところにあった。

 

 そして、翌日の夜に、父が危篤である電話を受け(そのときは心停止していたのだが)、父の死を受け入れないわけには行けない宣告を受けた。

 

           

 一か月を過ぎた今、もう涙の乾いた自分は了解した。

 

 ・・・自分をじっと見ていた猫が、父そのものであったことを。

 

 ・・・父の魂が、その猫の目を通して、私の生きざまを見つめていたことを。

 

 卒業生の正担任でありながら、卒業式に出席させない。そんなことがありうるのだろうか? 当時の卒業生からも、どうして先生は卒業式に来なかったのと複数の質問を受けた。彼らとは、今もメールや電話のやり取りをしているにも関わらずである。

     

 卒業式は、最も厳粛な儀式として、生徒の入退場、式の進行、挨拶、国旗や県旗の位置や、来賓者の席順、祝電の披露など、微に入り細に入り、神経質なものである。そこに正担任を出席させないとは、この学校に、よほどの「悪意」が存在していたとしか言えないのだ。

 

 

 数年前、自分は県立の通信制高校に所属していた。私立の通信制高校にありがちなルーズさとは縁遠く、厳しくも爽やかなまでクリアに筋を通す学校だった。

 

 レポートが合格するまで何度も再提出をさせる。1秒たりとも遅延すれば、不合格。そのためにレポート提出日の日は、職員皆が5時に施錠して、職員室を離れる。「音読」と言って、電話で、古文や英語の発音をチェックする。これが通らないと単位は取れない。

        

 私が赴任した平成26年には、その厳格であるために厳粛な校風が行き届きていた。自分は、自らの信条とも合致し、その空気を気に入っていた。

 

 しかし、27年~28年にかけての年度末の人事異動により、いわゆる「人権主義者」が転任してきた。管理職としては、単位習得率、進級率、卒業率の向上を県教委などから厳命されてきたのであろう。新しく配属されてきた教員も、筋金入りの人権主義者であった。

 

 「担任が受け取ってしまった」などの理由で、明らかに期限切れのレポートの受理。年間計画で決まっている単位追認試験日を、受験生徒が「以前より家族計画を立てていたため」変更する。音読はレポートの加点とはするが、必須としない。

 

 返信されてきた再提出用のレポートを無くしてしまったため、レポートの期限を延ばして欲しい。

レポート未提出のため修得不可となってしまった生徒は、実は原因は「担当者との相性が良くない」ので提出できなかったためである。担当者を替えて履修継続としたい。

                     

・・・それら理不尽な要求すべてが、人権主義の管理職の元、臨時会議での多数決で議決された。何年もかけて積み上げられてきた、通信制の規範や透明性は次々に破壊されていった。

 

 自分は、無言の抵抗として短期の休職をとった。校長命令とされた「履修中止」となった生徒を復権させるという内容を拒絶したためである。

「それは自分の道徳観に反することを強いる校長のパワーハラスメントである。県教委に相談する。」自分は、新しく来た校長に言い放った。

 

 長いものに巻かれようタイプの教員が多い。自分と相方の教科担当は、私の教材を非難し、レポートを無効のものとした。

         

 3か月の休職中は、弁護士や県教委との交渉に明け暮れた。こうなった以上やるべきことはやるつもりだった。

しかし、県教委と管理職は親しい友人であり、人事交流がある。結局は多勢に無勢だった。連絡が取りづらい生徒に私的な電話をしたとか、管理職に無断で「修得不可」の手紙を郵送したなどという、自分としては仕事として自然にしたことを問題視され、「人事管理上の」とやらの「処分」の対象となった。

            

 復職してから自分は、実質そのメンバーから外された。旧年度に作成していた自分のレポートは、より安易な何の思考力も必要としない、教科書丸写し式のものに変更されていた。

 

 通信制の通常の職務をさせず、来年度の教材を作るなど、実のない仕事をさせられた。(のちに、そのレポートも不採用となる。)時々の休息所としてた教科準備室は、授業を持たないという理由で立ち入り禁止となった。

                      

 この準備室の鍵を隠した事務長は陰険な性格を持ち、卑屈で、普通に話しているだけで知的レベルが著しく低いことが分かる人間だった。しょせん校長の太鼓持ちである。

 

 自分は、添削指導室という小部屋に異動させられた。これについては、こちらとしても願ったり叶ったりだった。ただでさえ、通信制職員室は小さな会社のように狭い。

「あいつらと同じ空気を吸いたくない。」昨年度、自分と同じような思想をもち、通信制を放逐された先輩教師が言っていた言葉が、心にぴったりと合致した。

      

 授業も、レポート添削も、生徒との対応も免除(禁止)された自分は、これ幸いに理科全般の勉強を始めた。大学生や大学院生だった時に比べて、科学は進んでいる。先進的な研究も含めて、日々8時間しっかりと学ばせてもらった。

 

 それを同僚が気に入らないようだった。私を村八分としたのが原因であるのにも関わらず、「お前の仕事を自分たちが分担してやっている」と解釈した。

               

 今度は添削指導室からも追い出し、薄汚く、日も差さず、冷暖房もない印刷室に私を移そうとした。事務長は先行して、添削指導室の鍵を隠した。

 

 馬鹿な連中である。そうなれば、図書室に移るだけである。印刷室への追い出しを首謀した教員と議論する前に、管理職と県教委に相談し、その話はないことになった。

 

 

 やがて、自分たちの根負けを認めたのか、年度末まで「県研修センター」で短期の研修を受けることになった。この腐敗した小さな職場を離れるため、自分からも希望していたところであるが、通信制の「小さな村」から私を追放するには都合のいい方法だった。

 

 研修センターの環境は悪かった。たえず監視をしている指導主事もいて、北向きのネットともつながっていないパソコンを一つ与えられ、天井からのかすかな温風のみの、寒い部屋に閉じ込められた。

      

 研修テーマは教科のシラバス(学習計画書)を作るのみ。どの教科のシラバスを作るかは自由。つまりは飼い殺しである。それでも自分は、久しぶりの開放感にあふれていた。自分なりにテーマを決め、この残りの月日を有意義に使おうと、たくさんの本を持ち込んだ。

 

 朝8時30分から、5時の鐘が鳴るまで一人きりである。週一度くらい指導主事と呼ばれる、管理職の予備軍の人が訪れるほかは誰とも接触がない。昼休みは、県立博物館の庭を散策して腰を伸ばしたり、近くの図書館で本を借りた。

 

 

 3月の中旬に、新年度は、現在の赴任地である富士山麓のH学校へ転勤となることを告げられた。車で片道1時間20分かかる定時制の高校であった。この人事について説明が欲しければ、教育委員会に来るようにと言われた。せっかくだから行くことにする。

 

 「ご両親の病気のこともあり定時制がいい。富士吉田までの道も良くなったことだし、一年ばかり我慢して頂ければ、甲府に帰られる。」教育委員会のこの言葉を、自分しっかり録音した。

 

 校長も、教頭も実質的な処分を両成敗で得たのか、それぞれ県境の寒村や管理職としては最低の序列の学校へ同時に飛ばされていった。

 

 

 H高校は意外に居心地がよかった。底辺校である上に、小規模校なので、2時間続きの授業では、1時間が毎回実験・実習ができる。生徒とともに学びながら、自分の知らない化学反応や植物観察などを重ねることは愉快だった。

        

 少子化による統廃合の結果、大きな学校であった跡地に入った高校で、スペース的にゆとりがあり、教科準備室も広い。はじめは1年で約束通り、「おさらば」できると考えていたが、自分から転出したくなくなった。それに呼応するように、翌年の異動は留任を告げられた。「録音の存在」を披歴すると課長は、一瞬顔色が変わったが、「毎年状況が動いているから」と平然と開き直った。人事において約束などは存在しないのだ。

 

 

 どこにも癖がある人がいる(人のことは言えない)が、勿論このH高校にもいる。通信制にも出現した、生徒を何でも許す人権主義者もいる。

それでも、ここには物理的なゆとり、時間的なゆとりが確保されている、もう5年目になるH高校を、自分は気に入っている。甲府から車で1時間20分かけても、通う価値が十分にあると考えている。

 

 しかし、ときどき通信制で受けた、意地悪な仕打ちは思い出す。それらは、「つまらない自分の正義感」から出た結果かもしれないが、正担任を卒業式から排除したり、物置部屋に近い印刷室に自分を移そうとしたこと、「二度と生徒とは接触させない」等という許しがたい言葉など。それらは、その時の感情をそのまま携えて自分に蘇る。機会をとらえて、いつか、この時の仕打ちは世に問いたいと思っている。

 

Ⅰ すべてが父につながっている

 

       

 寝具、毛布、上着、帽子、背広、下着、靴。それらは、施設できれいにビニールに整理されて、家に戻ってきて、まだ部屋の片隅にそのまま置かれている。

 

 色の褪せ方、模様、肌触り、防虫剤の匂い・・・それら全てが父の記憶を呼び起こす。

優しい笑顔、言葉、孫を見つめるまなざし、庭仕事や手料理をする姿。

 

         

 忌引きの7日が明け、父を失ったばかりの自分は、魂が抜け落ちた授業をしている。それでも教員の本能なのか、スライドやプリントは進んでいく。生徒たちは若人であり、死という不可避な世界から最も遠い集団である。この世から別れる時を、無限にはるか遠い先のこととして、忘れていられるときであろう。

 

 たまたま生物の授業などでは、父の葬儀の様子も口から自然と出る。遺体では血流が失われ、体の下半分が血液で赤くなること。ひげも少しは死後も伸びること。火葬場で、ペースメーカーや脊柱管狭窄症で埋め込んだボルトが、溶けかかっても残ったことなど。

         

 「湿っぽい話やめてよ。」すると或生徒は叫ぶ。「申し訳なかった・・・」 自分は、また無機的な教科書に戻るしかない。

 

 

 

Ⅱ 合理化

 

 「自分は父の尿カテーテルを拒否した。チューブに束縛され、生活の質QOLの低下を防ぐためである。そのため、利尿剤を多用することを医者に許した。その結果、腎不全が進み、カリウム不足となり心停止に至った。結果論ではあるが、父の死期を早めたのは他でもない、自分である。」     

・・・・この考えが頭から消えない。

               

 『父の死は不可避なものであり、仕方なかったんだ。精いっぱいやったんだ。それでも駄目だったんだ。』

     ・・・・今自分は、そう自分を説得させ得る答えを捜している。

 

 「自分を説得する」、それは、20年以上も前に結婚に直前で失敗したときに、自分が耐えがたい喪失感の中で行った手法である。

 

         

 30歳を直前にした自分には、干からびたて崩れ落ちそうな毎日が続いた。晴天続きの冬の柔らかな日差しまで嘲笑的に感じた。

自分はノートに、「その別れが不可避なものだった」とタイトルを書き、次に「その女性と結婚できなかったことによる利点」と思われる内容を書き込んでいった。

 

 それらの記述に下線を引き、マーカーで強調し、自分に何度も言い聞かせた。

「破局は時間の問題だっただろう。」「そもそも価値観が違ったのだ。」

「もし籍を入れていたら財産も半分取られ、その後の人生は破滅していただろう。」「子供ができる前でよかった。」

 

 こうした労作もせいぜい10分程度の慰めにしかならなかったが、抑うつへの応急措置として、頓服の薬程度の効果はあった。

 

 

 結局、そのトンネルを抜け出すのには1年余りかかった。その後、今の妻に出会えたわけだが、彼女を見つけてくれたのは他ならぬ、父であった。

 

 『結婚式はお断りします。生活費に回します』

ある結婚相談所で、自己紹介カードに書かれたその文言を見出した父は、「面白い人がいるよ。」と私に言った。その「面白い人」が現在の妻である。

          

 

 今自分は、父を失った喪失感に対しても、「自分を説得する」方法を適用しようとしている。説得内容は以下のとおりである。

 

 ①自分は全力で、介護を果たした。K立病院にいったい何度、父を搬送しただろう。ある時は深夜自家用車で、ある時は救急車を呼  

んで。

 

 ②同じく、K立病院にどれだけ父を通院させただろう。果てしない待ち時間を耐え、精神科、泌尿器科、内科を掛け持ちする。時として心臓リハビリテーション科で自分も父と同じ体操をした。

           

 ③「もう、十分やったよ。」・・・2年も前に父が倒れた時にですら、妻は怯える自分を励ましてくれた。病院の駐車場で急に倒れた父は(結局死は回避されたが)、心筋梗塞の可能性もあると宣告され、自分の恐怖心は極限まで大きくなった。

   『あれから2年も、父も、自分も頑張ったじゃないか。』

 

 ④平均年齢を超える、大往生とも呼ばれる年齢での死である。

「長生きじゃないですか。息子さんに見送られて幸せですよ。」と複数の人が言ってくれる。

 たしかに、父は長い人生を送った。字句通り「天寿を全うした」と言うこともできる。

 

 しかし、長寿だった年月に比例して、長く寄り添って得た思い出は、あまりに多く、あまりに悲しい。アルバムに残る父との写真。その時その時の自分の感情が、瞬間解凍されるように、鮮やかに再現されてくる。

                  

⑤死の前に、そうなる幾つもの兆候があったじゃないか。この死は当然の帰着である。

「どうして長くないことを予期しなかったの?」、一人娘にも言われた。

     

 心不全、胸水、息切れ、チアノーゼ、歩行困難。てんかん発作。失禁。けいれん。・・・そのための入退院の繰り返し。それから、この5月まで、まるで尾翼を失った飛行機のように、ダッチロールをしながら、父は入退院を繰り返しながら体調を崩していった。

それでも自分は、もっと長生きできると信仰じみて確信していた。

「入院し、退院するたびに、人間って、こんなに生きられるんだ。」娘はそうとも思ったという。

 

⑥周りの人は親切ないい人ばかりではなかったのか。父がお世話になった、いくつもの施設。いずれも、父の純朴さ、従順さもあったかも知れないが、どの人も優しかった。だから、父は幸せだったのだ。

                     

 最後の施設は、本当によく父を受け入れてくれたと思う。「息子さんとお嫁さんのサポートがあったから受け入れました。」

黒縁の眼鏡をかけた、優しい男性のケアマネージャーはそう言ってくれた。

 

 こうした「自分への説得」も、しかし、結婚相手とは違い、絶対無二、かけがいのない父が対象では、その効果はわずかしか持たない。それでも、どうしようもなく苦しい時、少しの慰安くらいは与えてくれているようだ。

 

 

Ⅲ 5月28日

 

 5月のカレンダーの28日の金曜日にはマジックで丸が書かれており、そこにはまだ、父の名前と診療時間が書かれている。それは父の次の予約日であった。

 

 存命であれば、介護用の特別仕様のタクシーを呼んで、リクライニング車いすを押して、精神科受付、精神科受診、診察後のファイル受け取り、同じサイクルを次は泌尿器科、その次は内科と回るに違いなかった。

 これまでと同じように、忙しい時間が過ぎた日になったであろう。午後の授業に間に合うかどうかの、ハラハラした午前になっただろう。

      

 しかし、もうその日は、病院に行かくなくてもよくなった。

 駐車場でスペースを捜し、エレベーターで車いすの出入りを気遣う。道を渡る時、警備員さんの誘導を受けて診療所に。入り口での体温検査、消毒・・・そのいずれも必要ない。

 

    (どんなに待たされてもいいから、もう一度父の車いすを押して受診させたい。)無理は分かっても、そう思う。

 

 明日5月28日は、ありふれた金曜日になるだろう。日々暖かくなる陽気の中、「喪失感に耐えられない」と感じながらも、結局は耐えるしかない自分がいるのだろう。

 

 父を亡くしました。高齢で持病持ちであったため突然とは言えません。それでも、最愛の父との別れは自分を十分に打ちのめしました。

 

 一週間ほど忌引きを頂き、本日学校に復帰しました。授業も4時間ほど行いましたが、なんとか涙を見せずに済みました。

 

 職員の打ち合わせでは、身内の不幸とは言え、迷惑をかけた職場へのあいさつの場が与えられるのが恒例です。

 

                                 ・・・以下はそこで述べたことです。

 

 

 

 『5月6日の深夜2時23分、父が入院中の病院から電話が来ました。

     

「0時過ぎ、一度お父様の心停止が起こりました。今は蘇生措置をして心臓は動いてますが、大変危ない状態なので病院に来てください。」との看護師からの電話でした。

 

 これまでの一生で、こんな怖い電話はありませんでした。

 

 心臓が激しく打つのを感じながらも、あたふたと着替えて家を飛び出し、5分ほど車を飛ばして病院に着きました。

 

 

 「ICUで全力を尽くしています。しかし再び心臓停止が起こった場合、20分ほど心肺蘇生を試みますが、それで駄目だったときは諦めてください。」大柄な若い黒衣の医師は、職業的な冷静さで言った。

「厳しい状態ってことですね?」楽観的な考えは全否定された。

「大変厳しいです。」

        

 以来3時間くらい、ずっと待合で待機した。途中一度だけ、先ほどの医師が待合に来て、「今、××さんは、心臓が動いたり止まったりで頑張っています。」、とだけ告げていきました。

 

4階病棟は重傷者が多いのか、心臓の拍動を刻むセンサーの音があちこちで響いていました。廊下の突き当りのICU室でのモニターの音が聞こえるはずもありません。しかし、耳に聞こえる、一番大きなモニター音が刻む音を父のものと感じながら、その音が途切れたり再開したりするのに神経を尖らせていました。

      

 ようやく5時過ぎにICUに案内されたときには、淡黄色に胸を露出された父には、人工心肺が装着されていた。のみならず、体中には数多くの点滴の管が挿入されていました。

 

 人工心肺は蒸気機関のようにすごい音を立てて、父の肺を風船のように、膨張させたり、収縮させていました。同時に看護師と医師が交代で心臓マッサージをしてくれていました。

    

やがて先生は、「もう、お父さんを、楽にさせてあげてやったらどうですか。最期に家族の皆さんだけの時間を少し差し上げますので。」と言いました。しかし、自分はすぐに返事ができませんでした。

 

 納得しない私に、本来は医療行為なので禁止なのでしょうが、30分くらい心肺蘇生をすることに、医師は目をつぶってくれました。しかし結局、心電図がフラットライナーのままで「臨終」を告げられました。

             

 15分くらい看護師さんと、医師はそこから立ち去りました。約束通り自分と妻と父だけの時間をくれました。人工心肺が相変わらず父の胸を上下させてくれていました。

 

「それでは、最後の診察を始めます。心肺停止。脈拍なし。瞳孔反射認められず。5時36分、××さんの死亡を確認いたしました。」  背の高い若い医師の宣告は、場慣れているせいか、実に無機的に響きました。

 

 

 自分は別れの時を、永遠に遠くのことだと決めつけていました。父はこの1,2年、心不全、腎不全で入退院を繰り返し、てんかん発作でも何回も倒れ、最後の一週間は意識も混濁していました。それでもなぜか、自分が「すぐには、父は死なない」と信じられたことが、今振り返っても不思議です。 

      

 

 

 父は優しく穏やかな人でした。私が幼いときは病弱で、北海道にいたため、冬などはソリで高熱の自分を、夜間診療の病院に何度も担ぎ込んでくれました。

 

 大きくなってからも、成人してからも、自分が生きてきた中で上手くいかなかったとき、父はいつも傍らにいて励ましてくれました。

それに対し、自分は「期待させては裏切る」ことを繰り返した、親不孝な人間です。

 

 久しぶりに自分の部屋に戻った父に何度も「ご苦労様、ありがとう。本当に申し訳ない」と言い続けました。

    

 布団に横たわる父は、病気との戦いに解放されたのか、実に静穏な面持ちでした。まるで昼寝をしているような、今にも目を覚ましそうな顔でした。

 

 8日には、横浜から駆け付けた娘も加わって、家族で見送ることができました。

 

 

 自分は、初めは思い出ばかりが蘇って泣いてばかりいましたが、死去に伴う諸手続きや作業に忙殺され、涙を流している暇もなくなりました。

 

 認知症の母親は、父の死が理解できません。ドライアイスに冷やされた父に触れても、花に包まれた姿を見ても、その意味が分かりませんでした。

      

 それでも母は自分に残された、たった一人の親ですので、できる限り大切にしていこうと思います。

 

 一週間も皆様にご迷惑をおかけしましたこと、深くお詫びを申し上げます。校長先生をはじめ、互助会の方々など、心遣いありがとうございました。微力ですが、今後少しずつ、ご恩をお返ししたいと思います。』

 

 以上2分程度、職員室の先生たちは、長い自分の話を聞いてくれました。それに前後して、何にもの先生が、弔意をしめす温かい言葉を与えてくれました。

 

 親を失う悲しみは強烈なものです。高齢化が進む職員室では、またどなたかの親御さんがなくなるでしょう。その時、うわべの気持ちだけではない、心から支えてあげられる言葉を、今度は自分から述べたいと思います。

 先日の、ルートイン南アルプスの一番風呂制覇に続き、発作的に別のルートインを予約した。コロナ禍と、父母の介護という制約の元、在住の山梨県内ならいいであろうと、ルートイン上野原に行くことにした。

        

 ルートインのチェックインは15時である。とっさに、甲府南インター近くの介護施設にいる父親と面会することを考えた。5分もしないでICに乗れる場所だったので、14時に施設に寄って、父の顔を見ておきたかった。先日転倒して顔に青あざを作ったことも聞かされていたからである。

 

 早く出たので、途中スーパーやコンビニで時間をつぶしながらも、13時50分に介護施設についた。職員に訪問の旨を告げると、

「今、××さんは、入浴していますが。」とまったりとしたことを言われる。

「え? 午前中に入浴と聞きましたが。では、明日でもいいです。明日の午前中も来られますから。何時がいいでしょう。」自分は、少し焦りながらそう言葉をつなげた。

「いえ、もう服を着ていますから、もう少し待っていただければいいと思いますよ。」しかし、職員は淡々とその提案をかわした。

       

 (14時過ぎには甲府南ICに乗って、15時少し前には上野原ルートインに入る。そして、その勢いで一番風呂に。)そう時間の算盤を、はじいていたのである。しかし、ここでの待機時間10分、面会時間5分を費やせば、ほぼ「一番風呂」を逃すことになる。そんな葛藤が、即座に起こった。ゆっくりと明日、父と面会することの方がいいとも思った。

 

 が、結局自分は10分待つことを選択した。

「では、待たしてもらいます。」自分は意に反して、そう答えていた。たった10分くらいも待ないはずはないだろうという職員の雰囲気が感じられたからである。

 

 介護施設で不意に、10分以上の足止めを食らい。『一番風呂』などという卑俗な闘争心を抹殺できる口実を得て、自分はむしろ安心した。

 

14時ちょうど、老いた父は施設南側のベランダに臨む、共有スペースに車いすに押されて現れた。

 

 「元気かい?」しかし、入浴後の心地よいトランス状態に入っているのか、父の目が開かないのである。網戸越しなので肩を揺することもできず、室内にいる職員の肩に起して頂いても起きない。右目は、先日転んだという内出血で青あざに覆われ、半パンダ状態になっているが、それは電話で聞いたより軽微なあざという印象で何ということもない。

 

 「おやじ、げんきか?」・・・繰り返し、何度大声で話しかけても反応しないのである。

父は車いすで昏睡を続けているだけであった。

 

 結局無駄な問いかけで10分近く消費した。父のこんな様子にかかわらず、「一番風呂を逃したな。」という失望感を意識している自分が浅ましかった。

 

 

 「明日、また来ます。色々ありがとうございました。」翌日また訪問できる口実を得たことを良しとして、自分はまた車上の人間となった。ところでカーナビを見ると、上野原ルートイン到着時間14:55着とある。再び、自分は色めきだした。

「まだ間に合う可能性があるということだな。」と思った。それにしても、なんという微妙な時間であろうか。

       

 スピードを上げて笹子トンネルを抜け、大月ジャンクションを過ぎ、談合坂SAを通り過ぎた後に、しかし車は不意に渋滞にはまった。そもそも自分には、5連休の4日目という意識がなかった。Uターンラッシュの本体に合体したのだ。そうだ、今日はもう5月4日なのだ! 一日くらい余裕を見て帰ろうとする車やバイクは、連休の前日の午後に帰る。そう気づいたが、もう手遅れだった。

渋滞中の周りの車は、八王子、熊谷、杉並、品川、湘南、千葉、練馬ナンバーなど、県外車で囲まれていた。

       

 渋滞の中で時間がみるみると過ぎ、15時を超えて、15時30分になった時点で自分はすっかり脱力していた。

「これで大風呂は絶望だ。なあに、部屋風呂でも今日はコンビニで100円もした入浴剤を買っているのだ。」そう開き直ると渋滞をむしろ、新鮮な体験として好ましく、くつろいだ時間として感じることができた。

 

 さらに自分には、安心感があった。「どうせ次の上野原ICで降りる。途中でトイレに行きたくなったり、この先のICでの合流で不愉快な気分になることはない。」

自分は、ご丁寧に連休最終日の前日午後に、東京方面に向かって車を走らせている愚か者だと、自らをむしろ滑稽に思える余裕も出てきた。

 

 渋滞のまま5kmほどノロノロ運転を続け、ようやく上野原ICから降りた。一般道で国道20号線沿いのルートインに向かうと、国道と中央高速道路を結ぶ線も、抜け道を探す車で一杯であった。

 

 

 ルートイン上野原へのチェックインは、16時になってしまった。観光地でもない旅館でも、駐車場は混んでいた。やはり近場でも、リフレッシュに人々は出かけたい気持ちは、自分と同じだと納得した。

 

 プラス400円でダブルの部屋を取った。ささやかな贅沢である。いかし、その贅沢はしょせん枕と歯ブラシが2セットある程度の結果に終わっていた。狭い部屋を見ながら「しょせんビジネスホテルはこんなもんさ。」と独り言を言いながら、旅装を解いた。

 

 しかし、やはり大風呂は気になるものであった。これは性癖のようなものである。「第一陣が入浴した後の、空白時間だってあるかも知れない。」そう思いなおすと、自暴的にタオルをもって浴室に急ぐ自分を見出していた。

  エレベーターにのり、引き返す場合にバツが悪くないように、フロントから見えない壁伝いに進み、大浴場の暖簾をくぐって、自分は恐る恐る扉を開けた。

 

「トラトラトラ!(我奇襲に成功セリ)」

        

それは奇蹟であった。靴脱ぎ場にはスリッパもなかった。自分は心を躍らせながら、すばやく服を脱ぎ、浴室に滑りこんだ。

 

 さらに奇蹟が起こった。洗面所のシャワーホースの巻き方、洗面器の置き方、浴場の床に広がったせっけんの無さ。いずれも自分が、この日の『一番風呂の征服者』であることを示していた。

 

「トラトラトラ!(我奇襲に成功セリ)」

 

 自分はゆったりと湯船をたゆたい、体を洗い、もう一度湯船に戻り、脱衣所に凱旋した。

 

世に奇蹟と言うものがあるならば、チェックイン後に、自分に1時間と言う猶予をくれたのだった。それから、夕涼みがてら上野原の街を歩き、適当な和食店に入った。予約専門という看板にも関わらず、たった一つ残されたテーブルに自分は通された。そこで芳醇なロース定食とビールを食らった。実においしかった。

     

 ホテルに戻りながら、甲州街道の古びた痕跡を探して、旅情を感じながら宿舎に戻った。駐車場はいよいよ満車になり、多くの人がラウンジや一階のレストランにたむろっていた。

 

キーをもらうとエレベーターに乗って部屋に入り、自分はベットに倒れこんだ。あとは部屋に運び込んであるビールとつまみを食らい、寝てしまえばと思った。しかし、その時、ある啓示がおりてきた。

 

「今は、18時過ぎの夕食後の時間の一番大風呂が込みそうなときであるが、『真空現象』が起こるかも知れない。」

 

直感を頼りに、心臓の鼓動を高まらせながら、だまされたつもりでタオルを手に掛け、浴室に向かうとスリッパは1つもなかった。

 

「トラトラトラ!(我奇襲に成功セリ)」

    

 自分は快哉を叫んだ。軽く体にシャワーをかけると湯船に飛び込んだ。4往復程度だが、クロールと平泳ぎなどで遊泳した。緑がかった浴槽の湯の中で、「完全なる勝利だ」と酔い、歓喜の踊りをもう一度湯の中で舞った。

 

 心を静めて部屋に帰ると、改めてビールの缶を開けた。上野原の夜は窓の外で静かに更けていった

 

*                   *                *

 

 翌朝、6時45分にバイキングを済ますと、父のことが気になりだした。本当は朝風呂にも入りたかった。しかし、朝食会場から出るとき、何人かが浴室に入っていくのを見てその気は無くなっていた。

 

 介護施設の開所時刻の8時30分に電話を掛けると、10時なら再び来てもらっても構わないとの答えだった。

確かに昨日の父の反応は気がかりだった。意識耗弱とした中で、うっすらと目を開いた父の姿は普通ではなかった。

 

 ルートインを去って、閑散とした街を通り抜ける。中央道に入ると、下り線はさながら自分の車のための専用道路だった。時々、著しく遅い車を追い越したり、著しく速い車が追い抜いていく以外は、快適で静穏なドライブを楽しんだ。

 

 9時50分に父のいる施設に滑り込む。コロナ禍の時に、網戸越しに直接話をさせて頂けるとは寛大な措置である。ベランダ外に2つのオレンジ色の椅子を用意していただく。

      

 しかし、10時10分を過ぎても父は降りてこなかった。

「きっと寝込んでいて、起きるのに時間がかかっているのだろう。」と自分に言い聞かせながら、なぜか不安の気持ちが高まってきた。上野原では朝晴れていたが、甲府に近づくにつれ次第に曇りがちになり、肌寒い風が吹くようになっていた。その冷ややかな風の中で、いやな予感を覚えながら玄関に立っていた。

 

 やがて、恰幅の良い担当の女性の看護師さんが玄関に降りてきて、

「今、お父さんは起きようとして、また『てんかん』を起こし1分くらい痙攣していました。その後、5分くらいたっても意識が戻りません。ちょっと、見に来てもらってもいいですか?」と心配そうな面持ちで告げた。

 

 2階の父の部屋に入ると父は、青ざめた顔を横にしながら、目を閉じたまま唸り声をあげ、嘔吐感があるのか、口を盛んにふくらましたり、すぼめたりしていた。そこには既に、施設にいる3人の看護師さんが、血中酸素量や血圧を測りながら、父の肩を揺すり意識を戻させようとしてくれていた。

 

「息子さんが来ましたよ。**さん、目を開けられますか?」

「おやじ! しっかりしろ!」自分は額に手を当てたり、手を握ったり、肩を揺すりながら父に叫び続けた。

     

 

 救急車は速かった。なにより信号による停止がない。対向車線を通る時もある。・・・などと、とこんな時に、感激してどうなるのかと思いつつ、自分と父は病院に救急搬送されていた。

       

 処置室に父が担ぎ込まれてから、待合室で待機しながら自分は自嘲した。

・・・何が「トラトラトラ(我奇襲に成功セリ)だ。たかが、宿泊施設で一人で風呂に入ることだろう! 今のざまをみろ。

 

「××さん、××さん」、処置室から甲高い看護師の声が聞こえる。

その合間を縫って時々、人形浄瑠璃のような、父の嗚咽の声が聞こえる。

 

 父の認知機能を著しく低下させたのは、度重なる入院によるせん妄だと思っていた。だから、さらなる父の入院は避けたかったのであるが、反面、今日の介護施設での「てんかんによる意識不明状態」を見れば、入院を拒むことはできない状況だった。

      

 父はもう、この病院で何も入退院を続けている。いつも同じ入院証を書き、パジャマと下着と紙おむつのCSセット、認知症による結束の許諾書などを記入する。悲しいことだが、さすがに慣れてしまっている。

 

 父は他人の前で恥をさらすことを、極端に嫌っていた。自転車で買い物から帰る時も、裏道の小路から忍び込むように家に入った。町内会の寄り合いの時、「トイレに行きたい」などと言って、中座して逃げ帰ってきた。宴会の時も、ひそかに浴場に行き、最後の締めが行われる前にこっそりと席に戻るなどしていた。(それらは全て衆目の知るところとなっていたらしいが。)

 

 そんな父の羞恥心は、ホテルの一番風呂を狙う自分に現れている。畢竟それは自分の羞恥心から得ているに違いないのだ。

 

 その父が今、何という姿なのだ! 病院の大勢の中を担架に乗せられ、人形浄瑠璃のような声を上げながら、会計、待合所を経て、衆目の視線の中、処置室に運ばれていく。

 

「一番風呂を果たし、散歩後の単独入浴を果たした。」自分にとっても、父のその叫びは、この浅ましい興奮への警鐘なのか。

 

 いや、そう今考えても、また次にどこかのビジネスホテルに泊まるときには「一番風呂」を気にしているに違いない。そんな卑俗な心の動きを、自分は正確に予想できる。それを個性だと割り切るには悲しすぎることであるが、死ぬまで、この卑俗な心は治らないと思う。

 

 

  父から「一番風呂」という言葉を教わった。ホテルや銭湯で、その日誰も入っていない純潔な湯をたたえた風呂に、ミソギのように入浴する。それが、最善の入浴であると。

     

 何十年たってもその父の洗脳は解けない。

 

  こざかしいことだが、「大浴場は3時から」などと言われた時、2時50分頃に敢えてフライング入浴することも覚えた。開湯時間までの10分あれば、他の人に先んじて体を洗い湯船につかって、あとは「新入者」を待ち受けるだけの態勢を取れる。

 

  ある時なども、それを実行したが、開湯時間も間違っていたのかも知れないが、湯が沸いてなく、しかたなく、歯を食いしばって水風呂に入ったこともある。本当に「ミソギ」になった。それでも、オゾンのような臭いをかぎ、冷水に逆に体が火照った感覚を、自分は満足していた。

         

 このところ、コロナ禍で大浴場閉鎖という旅館も多い。そういわれたとき自分はホッとする。

『大風呂は使用できない。抵抗不可能なのだ。自分の部屋で、狭い風呂に湯を張ってその代わり30分かけて入ればいい。』 

 

 

                  

 

 

 逆にこの時期でも、大風呂が利用可能ですとフロント言われると不安になる。入浴をどう「攻略」すべきかの、不安定な作戦を立てなくてはいけない。


 『入らなければ損だ』という固定概念は頭から去らない。しかも、「できるだけ一人きりで入浴したい」という概念も消えない。

 

風呂場でのイニシアチブをとるためには、まず、暖簾をくぐり扉を開けたとき、履物やスリッパが一つもないことが前提である。

 

 したがって、入浴動作が出遅れたときでも浴室に行くのだが、暖簾をくぐり、扉を開けたときスリッパが3つ4つもあった時などは、タオルを腕に抱えながら、すごすごと部屋に帰ってくるのである。

           

 結局は劣等感なのであろうか? 小柄で華奢な裸体を見られるのが怖いのであろうか?

いや、それだけではなく、病的な心理と思われるかもしれないが、『自分が浴場にあらたに侵入していくことを、先客が不快に思ってはしないだろうか』と勘ぐってしまうのが、一番の動機だと思う。

              

 逆の立場で、「一人でのびのびと入浴しているときに、新しく知らない客が入ってきたときの身構える感じ」はよく分かるからだ。

 

 一人で入ることに成功して、体を洗った後、湯船につかっているときには、もう自分が「追従者」を迎えるだけなのでさほど不安はない。それでも、誰も入ってこないで脱衣所でも一人である方が望ましいとも思う。

 

 入浴が完了し部屋に戻ったとときの達成感は半端ない。体の温もりは心地よく心を弛緩させ、余熱で頭皮に滲んでくる汗は、部屋備えつけのドライヤーでまったりと乾かせばいい。

 

 とは言え、まだ油断できない。「もう一度入ろうか?」という邪念がわいてくる場合もある。その場合、前述のびくびくした心理過程を、再び経なくてはいけない。だから、自分はよほど旅館が空いていない場合、再入浴をすることはしない。 

 

(朝のバイキングについても同様な心の葛藤があるが、ここでは省略する。ただ、卑俗で病  的な気持ちがいくつも動くことは、入浴と同様である。)

 

 朝風呂にも未練がないわけでもないが、もう十分である。昨日の入浴時の開放的なイメージを壊したくないのだ。

 

 チェックアウトを済ませ、かくて神経質で、ぎすぎすとした感情から完全に開放され、自分は旅館を後にする。

       

 ・・・いったい何のための旅行か? リクリエーションか? いつになったら、こんな小さな自分から逃れることができるのか?

 

 いつか、たまたま自分が先に入浴していて、何人かの団体が加わり、その後ひとりの小男が浴室に入ってきた時がある。当然洗い場や湯船が一杯であった。

しかし、彼は浴場の真ん中の床にどっかと腰を下ろして、洗面器で湯船から湯を取って、体を洗い始めた。自分は『神のような大きさ』を、その男に感じた。

 

 いつかはそうなりたいと思いながら、2時50分に不安な心を携えながら自分は、大浴場の暖簾を、左右をきょろきょろしながらくぐっている。

 (以下に述べられていることは、物語風な書き方で恐縮であり、匿名こそ用いているが、本質的に事実である。小説で書かれているようなことが現実に起こることは驚異であるとともに興味深い。)

 

 

 雀が丘(すずめがおか)高校の放課後の弛緩した職員室の静寂は、突如現れた中年男の野太い怒鳴り声で破られた。10月の終わりとは思えない残暑が収まりつつある、16時少し前だった。

     

 「野口という野郎は、どの先生や?」迫力のある京都弁だった。中途半端に伸ばした白髪、鼻の先に引っかけているかのような丸レンズのメガネ。そして、この暑さにも関わらず、くたびれている感じの灰色のジェケットを羽織っていた。

 

 15時30分に6時間目が終わり、大半の生徒はクラブに行くか、下校したかであったが、職員室には数名の生徒たちもいた。クラブの部室の鍵を借りに来たとか、進路相談に来たとか、ただお気に入りの先生と雑談に来るとか。先生方も、クラブに出ていったり、小テストを採点している、とにかく普通の放課後だった。

 

「教師のくせに、人の道に反するマネをしおって。」興奮した自らの声にさらに興奮したのか、2度目の罵声はより居丈高だった。京都弁の男の隣には、小柄なやはり中年の女が立っていた。絹とレースをあしらった贅沢な衣装に身を包み、何も言わなかったが鋭い目で周りを睨んでいた。首には上物らしいえんじ色のスカーフを巻いている。二人はどうやら夫婦のようだ。

   

 鳴り声に驚いて振り返った教員たちは、皆一斉に話しや仕事を止め、この職員室の入り口付近に立つ、灰色のジャケットの中年男と瀟洒に着飾った女を凝視した。季節外れの暑さで、薄めの半袖のシャツ等を着ていた教員たちから見て、厚地のジャケットには違和感があった。

入り口近くで生徒の出欠を確認していた男性教諭が、生徒たちを直ちに職員室から退出させた。

 

 「どいつなんや! 野口って言う奴は?」

 

 職員室の隣の小部屋で書類のコピーをしていた小柄な教頭が、騒動を聞き、慌てて出てきた。ネクタイの捻れを糺し、深呼吸してから男の方に向かう。

 

「教頭の田中です。どうなされましたか? 野口先生に何かご用ですか?」

 

 教頭はひたすら低姿勢で、穏やかに言った。生徒や大勢の教員の前で、事を荒立てる訳にはいかない。

 

「野口っていう奴に話があって、京都から来たんや。どこに居やはる?」さすがに教頭の落ち着いた対応に接して、ジャケットの男のトーンは少し下がった。

 

*                   *              *

 

 15分後、教頭と副校長、この中年の夫婦、そして物理教師の野口幹男(みきお)は、北側校舎3Fにある理科準備室の奥にある古びたソファに対座していた。準備室にはエーテルのような薬品くさい臭いが漂い、ビーカーやフラスコ、試験管の類が隣の黒い実験台の上に並べられている。 

 教頭と副校長に挟まれて幹男は、顔をうなだれたまま、花柄のテーブルマットに視線を落としている。太陽を背にして並んだ夫婦たちの眼光は、目の前に跼(せぐく)まるの幹男を厳しく射貫いていた。

  

 「あれ以来、菜穂はろくに食事もとれずに伏せっている。おまえは人の心を弄(もてあそ)んで良いと思っているのか?」

 

(短気であるがお人好しの父親と、優しく涙もろい母親)という両親像は、幸田菜穂(こうだなほ)から聞いていたが、直接相対するのは初めてである。

 

「デパートのウエディングドレスを見なはって、菜穂は、ほんま嬉しそうやった。あんたのせいで、菜穂は教壇にも立てんようになってしもうた。」小声だったが、母親の声もピリピリと怒りに震えている。

 

 「どうなんだ、野口君? 結婚の約束をしていたというのは本当なのか?」

少し髪が薄くなった教頭は、夫婦の剣幕に押されているが、仲裁するにも自分が事情を知らなければならないと思った。

 

「・・・・・たしかに・・・」

 

「たしかに何だ?」父親は間髪入れず怒鳴った。

 

「たしかに、菜穂さんから見れば、誤解されても仕方ないかも知れません。」

 

 幹男は小柄ながらも精悍な体に、晴れやかな額の整った顔をしている。いつもなら、ぴったりとフィットしたトレーナーを着た背筋は真っ直ぐ伸びている。週三日スポーツジムで鍛えている体は、男盛りの30歳の若さを発散していた。

 

 しかし、今はまるでしょぼくれた老人のように生気のない前屈みの姿勢となって、青いトレーナーが腹部で皺をつくっている。彫りの深い横顔も今は不安な陰影をつくり歪んでいた。

 

 「誤解されてもしゃあない? ふざけはるな!」父親の激昂は明け放れた窓を抜け、対面の校舎に反響しそうだった。

 

「娘からみな聞いてはるぞ! おまえは男のクズや!」

 

「まあまあ、お父さん。野口君の言い分も聞いてから、議論しましょう。」小柄で白髪の副校長は、教頭に輪をかけて優しい言い方で父親を制した。

 

*               *                  *

 

・・・しどろもどろになりながらも語った、幹男の説明の概要は以下の通りであった。

 

・幸田菜穂は年こそ5つ下だが、同じ阪急大学卒で、京都左京区にある幹男が勤める中高一貫校のK女学館という私学に赴任してきた。そこで、同じ学年、同じ進路部に所属したため、自然親しくなった。

  

・親しくなったとは言え、『一線を越えた』わけでは無い。(しかし何度か、くちびるを重ねたことについては、相手の父母を前に言えなかった。)

 

・確かに、食事を一緒にしたり、大阪や神戸でデートを何度かした。

 

・しかし、Y県の公立学校に赴任するとき、これからの遠距離交際は無理だと思い、二人の関係は清算したつもりである。(少なくとも、そのように菜穂に気づいて欲しかった。)

 

・以降、夏休みや冬休みに菜穂の方から「是非会いたい」という連絡は何度ももらったが、それには応えることができなかった。

 

・雀が丘高校で、職場結婚することになったのは、自分が京都から離れて始まった、実習講師の井口季乃(すえの)との交際が実ったためである。従って、菜穂との交際期間とは『重複していない』。

 

・菜穂は確かに「結婚」という言葉は出していたが、それを明確に否定できなかったのは自分の八方美人な性格の弱さが招いたもので、申し訳無い。

 

・どうしても「別れる」という言葉を切り出せなかったので、京都とY県との地理的な隔離をもって、交際の消滅と解釈していたのは、やはり自分の軽率さだった。

 

・結婚が決まったのにこれ以上、菜穂から連絡をもらい続けることは、それこそ彼女を傷つけることになるので、その旨を本人に伝えた。

 

*                *             *

 

 「もう一度聞くが、野口君の方から『必ず結婚する』などということを、こちら様の御子女に言ったことは無いんだね。」教頭は迂闊にも、このように部下を弁護するような発言をした。

 

「あんたら、このような不潔な男を放っておくつもりかいな?出るところへ出ても、こちらはかまへんで。」父の怒りは再燃した。

 えんじ色のスカーフを震わせながら、母親はしきりに京ちりめんのハンカチで涙を拭っている。

 

「まあまあ。そんなに大声を立てないでも、お父様のおっしゃりたいことは十分に分かります。」副校長は、しょうもない奴だなという表情を幹男の横顔にちらりと送りながら、次の話の持っていき方を思案していた。

 

(翌日聞いたことであるが、教頭と副校長は幹男一人を準備室から退出させてから、30分くらい夫婦に対応していたようである。

 

 18時頃には、いずれにしても両親は学校から離れていた。『けじめはきちんとつけてもらう』という父親の捨て台詞を残して、頭を下げ続ける教頭と副校長に、挨拶もせず二人は帰って行ったそうだ。)

 

*                  *              *

 

 勤務地のFY市の郊外にある4階建ての古い安アパートの三階の一室に、幹男は19時頃に帰ってきた。ぼろきれのように心身が疲れていた。

 

(長い一日だった。ほんとに長い一日だった。)

 

 冷蔵庫から冷えた缶ビールを出して一気飲みしながら、この午後をしみじみと振り返っていた。コンビニの袋や空のカップ麺、丸まった下着や、書籍等が無造作に床に散らばっている。その隙間にようやく敷かれている古びた蒲団に、彼は大の字に寝転がった。

 

 (これで、雀が丘高校にも来年は居られないかもな。菜穂の両親が大人しく帰る引き替えに、管理職が自分の来年の人事などの取引をしたかも知れない。季乃とは学校の帰りがけに、彼女の車の横で少し話すことができたが、不安そうな顔をしていた。『もう終わった過去のこと』であると信じてくれれば良いが。しかし、季乃の両親に今日のことが知れたら、最悪破談になるかも?)ビールも2本目となり、ようやく酔いがまわってきた。効き始めたクーラーに身を涼ませながら、幹男の想像は悪い方へ向かった。この頃の習慣となっていた23時の季乃へのおやすみメールはこの日は省いた。

 

*                *               *

 

 幹男は、自分の性格の欠点を十分認識している。改めて言うと八方美人なのである。人の考えに反する言葉が言えずに沈黙していて、結局は相手をもっと傷つけてしまう。そもそも、幸田菜穂をそういう気持ちに追い込んだのも、この性格からだった。K女学館に赴任した菜穂は、新任の一年間で二人の同僚に次々にふられていた。結果として、いずれも元の交際者たちは菜穂をふった後、職場とは関係ない女性と結婚していた。

 

 しかし、それらの非は決して、彼女をふった同僚ばかりに帰すことはできない。数学を担当していた菜穂は痩身、細面で色白の理知的な顔をしていた。大学に入る前はミッション系の中高一貫のお嬢様学校に通っていたとかで、ジーンズなどスポーティな服こそ好んで着ていたが、上品な所作がいつも垣間見られた。ただ、菜穂の性格は、よく言えば天真爛漫、悪く言えば幼稚で融通が利かない。相手の反応にお構いなく、興味あることを一方的に話し続ける傾向もあった。それでも、2度続けてふられた後の落ち込み方はひどく、進路指導室で近く机を並べる幹男は捨てておくわけにもいかなかった。

 

「また、いいこともあるよ。あなたは真っ直ぐな人だからね。」

「おいしい魚を食べさせる店があるから言ってみようよ。」

 

 幹男は大学時代から実は比較的モテたが、その頃は仕事が面白く没頭していて、たまたま男女関係がフリーだったこともある。自分の方が5歳上だったので、菜穂に自然優しくふるまう立ち位置になった。くちびるを重ねたのも、今にしてみれば同情心からであった。しかし、その行為の前に、それを誘(いざな)う仕草が、菜穂の方には確かにあった。

 

 しかし、直情的で思い込みの激しい彼女は次第に大胆になっていった。やがて、幹男から「結婚」という言質(げんち)を取ることはできなかったにせよ、

「こちらからは、別れることはしないよ。」等といった言葉を、彼は言わざるを得ない状況に追い詰められた。

 

「生涯別れない = 結婚」・・・一途な菜穂が、短絡的にそう取っても仕方が無かった。

 

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 カトリック系のK女学館に、菜穂と一緒に勤めていた頃を改めて思い出す。幹男は当時から仕事に手を抜かない人間であったが、反面こだわりが強かった。従って、意見を異にする教員と衝突することも稀にあった。

 

(これは私生活にて概して八方美人であることと対称的だった。) 

 

 K女学館は、1960年に学校法人となった。元市会議員の理事長のワンマン経営、一族経営が目立つ学校だった。事実、理事長の息子2人も同校の教員となっている。まだ20歳代の二人は既に教務主任と進路主任を務め、将来の理事長、校長になるのが必定だった。こうした前近代的な空気に、幹男は当然不満だった。

きっかけは小さいことだったが、教務主任である理事長の息子に「不満なら明日にでも他の職場に移られたらどうですか?」と上目遣いで言われてすぐに決心がついた。仕事をしながらの採用試験の勉強も辛かったが、翌年、幹男は甲信越のY県の公立学校の教壇に立っていた。生まれの神奈川県も近く、赴任場所として満足できた。

 

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 Y県での初任校である雀が丘高校は新鮮だった。定時制高校ということもあり、色々なタイプの生徒や先生がいた。そこで彼は、何年もできなかった深呼吸をした。雀が丘高校は山岳地方にある。夕暮れに染まった深紅の美しい山並みを見ながら、幹男は菜穂のことを時々思い出す。彼女は、Y県への赴任を聞いて、はじめ泣いて悲しんだ。とは言え、K女学館の封建体質も当然分かっており、長く勤める職場ではないことを理解してくれただろう。

 

 「どうせ結婚したら自分も退職するのだから」とあけすけに彼女が言ったときもある。また、「夏休みは一緒に過ごそうね」と何度も言った。幹男はそんな空虚な言葉に、作り笑顔で答えるしかできなかった。

 

(結局、お別れの言葉は言えなかったなあ。)

 

 実際には幹男は半年間の菜穂との交際が、「絶えず依存される重たさ」を感じるばかりになり、新天地での生活が待ち遠しくなっていた。彼女に対しては、「Y県で落ち着いたら連絡するから」などと心にも無いことを言ってかわしていた。

 

 別れの日、新幹線の窓から後ずさっていく菜穂には、まだ爛漫な笑顔と再会への確信が見られた。自分のシートに身を沈めた彼はしかし、安堵と脱力感を覚えずにはいられなかった。

 

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 新しい環境に慣れるのに夢中で、雀が丘高校であっという間に半年が過ぎた。しっきりない業務が途切れたとき、ふと「自分も、もう30を過ぎた」という感慨が通りすぎるようになった。漠然とではあるが直子とのこともあって「結婚」という2文字が頭をかすめる時が出てくる。

   

 そんな心の隙間を埋めるように現れたのが、実習講師の井口季乃(すえの)だった。2歳年上の彼女は、菜穂と正反対の性格であった。早くから父母を亡くしている季乃は、誰にも頼らない凜(りん)とした姿勢が目立つ。理系の人間によくあるように、だらしなくプリントや実験器具を放置する幹男に対し、嫌み一つ言わず、きびきびした動作で片付けてくれている。

季乃は多忙だった。理科の実習講師以外でも、放送部の指導、厚生部の物品発注や請求書処理など、能率良く仕事をこなしていた。しかも、それらはけっして、誰からをも感謝や賞賛などを必要としない自主的な行為であるのは明らかだった。季乃はそうした敏捷性を具現したように小柄でスリムな、表情豊かな瞳をもつ女性だった。真面目さと対称的に、大抵は白衣の下にコミックめいたTシャツなど、カジュアルな服を着ているのはユニークだった。       

 季乃の忙しさもあって、理科準備室で幹男とあまり一緒では無かったが、時々は話しをするようになり、いつしか揃いのカップでコーヒーをすするようになった。それからの二人の展開は省くが、夏休みが終わる頃には、互いに生涯の随伴者としてふさわしいことを認めるようになっていた。

 

 来たるべき結婚について、校長先生その他に相談したのは9月中旬である。燎原の火が瞬く間に枯れ野に広がるように、二人の仲は生徒も含め全校の公認になった。そして、重たい義務として、菜穂にも「婚約」を連絡したのは前述の通りである。

 

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 里山美佐子が緊急の女子食事会を召集したのは、あの京都からの中年夫婦の騒ぎがあってから1週間後のことだった。たまたま生徒休業日に当たり、日頃の慰労も兼ねてとの名目である。職員室入り口の左隣にある会議室には、近所で評判のトンカツ屋の仕出しが、11時半に運び込まれた。強制参加では無かったが、雀が丘高校に所属する12名の女性教員の内、都合がつかない2名を除き10名が出席した。その都合のつかない2名の内の一人は季乃だったのには意味があった。

 

・・・「野口先生のことを皆さんどう思いますか? あのように遠くから人が怒鳴り込んでくる状況を招くこと自体、教員としての資質に欠けると思いませんか?」額の下に奥まった小さな目を怒りで輝かせながら話を続ける。

 

 にわかに会議室の空気が硬直した。そうだったのだ(!)出席者は直ちに里山美佐子の意図を見いだした。『野口幹男の吊し上げ』である。食事会をこの日に設けたのも、婚約者季乃の出張を見計らってのことであった。

 

 誰も反論を加える者も居なかったので、美佐子は主張を続けた。細身から発せられる声であるが、生徒を圧するときと同じような鋭い勢いがあった。

 

 「京都にいた婚約者をだまして捨てたという話です。いやしくも、生徒の前で、『人の生きる道を説こうとする人間』がです。あの先生は、2つ前の職場でも同じようなことをしているそうじゃないですか(これは美佐子の作り話だった)。」

 

 周囲の空気はいよいよ険悪なものとなった。幹男の私的な事情をよく知らない先生たちは好奇心こそくすぐられたが、昼食会らしからぬ美佐子の言動に嫌悪感をもった者も多くいた。

 

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 ここで話しは前後する。美佐子は幹男が赴任した、この春から初夏にかけて、2度ほど彼と食事を共をしたことがあった。彼女はシングルの30代中ばならではの美しさをもっていた。しかし、痩身な体躯と低く落ち着いた声に、どことなく冷徹な印象を幹男は感じずにはいられなかった。

 

 1度目の食事は、赴任後すぐに進路副主任になった彼を、昨年の進路副主任の美佐子が招待するという断りづらい場が設定されていた。清水港からの直送の魚を食べさせる店だった。今考えれば幹男の精悍で整った風貌が、彼の意志とは関係なく、美佐子の心を早くも捕らえていたのであろう。それでも幹男は、店の止まり木に並んだ彼女との会話から、新しい職場の雰囲気や人間関係を知ることは新鮮だった。

 

 2度目の誘いは、雀(すずめ)祭という名の学園祭で、彼の担任するクラスが、ステージ発表部門で優勝したことを祝勝するという名目だった。今度はフランス料理のコースを予約する高級な店だった。しかし、このとき、美佐子は彼に万年筆を贈ろうとした。このことは少なからず、幹男を狼狽させ、警戒させた。

 

「いや、クラスのみんなが頑張ったことだし、自分はただ黙って見ていただけだから。」

 

 そう答え、躊躇する幹男の横顔に魅せられながら、美佐子は強引に彼の胸ポケットにそれを差し込ませた。

 

「ありがとうございます。それでは頂きます。」少しの逡巡の後、幹男は精緻な銀色の装飾を持つ万年筆を受け取った。

 

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 しかし、一学期の終業式にご苦労様会と称して、3度目の誘いを美佐子から受けたとき、さすがに彼は、多忙を理由に断った。折しも狭い街での目撃談もあって、二人だけの食事のことは何人かの同僚の話題に上るようになっていた。この拒絶以降の幹男のつれない態度に、美佐子には強い失望を覚えた。 

 

 以降、4度目の誘いは無かった。誇り高い美佐子は、著しくプライドを傷つけられた。と同時に、幹男に対する消極的ながらも復讐心が生まれ始めた。

       

 

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 ・・・そんな美佐子にとって、この秋の幹男の失態は、彼を社会的に追い落とすための絶好の機会だった。会議室での彼女の主張はますます勢いを増し、弁当を前にした出席者の耳に殷々と響いていた。


「そもそも野口先生は、それに独善的な考え方の持ち主でして、気に入らない生徒には普段点を故意に低くつけるとか、お気に入りの子にサービス点をあげるとか。保護者からも色々『あの先生は』という声が上がっているらしいのよ。それだけでは無いわ。彼のアパートの近所の人から聞いたんだけど、季乃先生を深夜に呼びつけて・・・」

 

 いよいよ美佐子の勝ち誇ったような弁論が凱歌を奏でようとする刹那、安達文子という赤いフレームメガネを掛けた厚生部主任が、決然とした声でその言葉の続きを遮った。

 「里山さん、おだまりなさい。あなたのお話はこの場にふさわしくないわ。昼食会と言っても勤務時間よ。私し事と公け事をいっしょになさらないで下さる! 里山先生が開いてくれた、今日の昼食会を楽しみにしてくれた人も多いのよ。これじゃあ、まるで台無しだわ。とにかく、そんな話しはおしまいにして皆さん弁当を頂きましょう。」

 

・・・文子の肥えた腹部から絞り出されるような声は威厳に満ち、美佐子を直ちに沈黙させ、改めて会議室の空気を一掃した。彼女は今年定年を迎え、この学校の勤続年数も12年になる。いつも穏やかで、華美にならない落ち着いた色のワンピースを地味に着ていた。どの先生とも気さくに身の上話をする人格者だった。しかし、このときの文子は、誰からの反論をも寄せ付けない、力強い迫力に満ちていた。

 

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 それから、昼食会が終わるまで、ほとんど静けさが続いた。ただ、箸と弁当箱が触れる音、食べ物を咀嚼(そしゃく)する音だけが会議室にかすかに響いていた。

 

 安達文子は、過去をけっして話さない女性だった。従って、「壮絶な」と形容されても仕方ない不幸な過去を、この会議室の中で知る者はいなかった。勿論、長く垂らした白髪交じりの前髪に隠された、元暴夫から受けた古傷をも、誰に気づかれようもなかった。

 

 安達文子は、美佐子も、幹男も、幹男のかつての交際者も、今必要なものは長い「静寂」ではないかと考える。その中で、時間の流れとともに出来事が色あせて客観化し、それぞれの心が自然治癒していくのを待つしか仕方ないと思っていた。

・・・かつての自分がそうであったように。