(以下に述べられていることは、物語風な書き方で恐縮であり、匿名こそ用いているが、本質的に事実である。小説で書かれているようなことが現実に起こることは驚異であるとともに興味深い。)

 

 

 雀が丘(すずめがおか)高校の放課後の弛緩した職員室の静寂は、突如現れた中年男の野太い怒鳴り声で破られた。10月の終わりとは思えない残暑が収まりつつある、16時少し前だった。

     

 「野口という野郎は、どの先生や?」迫力のある京都弁だった。中途半端に伸ばした白髪、鼻の先に引っかけているかのような丸レンズのメガネ。そして、この暑さにも関わらず、くたびれている感じの灰色のジェケットを羽織っていた。

 

 15時30分に6時間目が終わり、大半の生徒はクラブに行くか、下校したかであったが、職員室には数名の生徒たちもいた。クラブの部室の鍵を借りに来たとか、進路相談に来たとか、ただお気に入りの先生と雑談に来るとか。先生方も、クラブに出ていったり、小テストを採点している、とにかく普通の放課後だった。

 

「教師のくせに、人の道に反するマネをしおって。」興奮した自らの声にさらに興奮したのか、2度目の罵声はより居丈高だった。京都弁の男の隣には、小柄なやはり中年の女が立っていた。絹とレースをあしらった贅沢な衣装に身を包み、何も言わなかったが鋭い目で周りを睨んでいた。首には上物らしいえんじ色のスカーフを巻いている。二人はどうやら夫婦のようだ。

   

 鳴り声に驚いて振り返った教員たちは、皆一斉に話しや仕事を止め、この職員室の入り口付近に立つ、灰色のジャケットの中年男と瀟洒に着飾った女を凝視した。季節外れの暑さで、薄めの半袖のシャツ等を着ていた教員たちから見て、厚地のジャケットには違和感があった。

入り口近くで生徒の出欠を確認していた男性教諭が、生徒たちを直ちに職員室から退出させた。

 

 「どいつなんや! 野口って言う奴は?」

 

 職員室の隣の小部屋で書類のコピーをしていた小柄な教頭が、騒動を聞き、慌てて出てきた。ネクタイの捻れを糺し、深呼吸してから男の方に向かう。

 

「教頭の田中です。どうなされましたか? 野口先生に何かご用ですか?」

 

 教頭はひたすら低姿勢で、穏やかに言った。生徒や大勢の教員の前で、事を荒立てる訳にはいかない。

 

「野口っていう奴に話があって、京都から来たんや。どこに居やはる?」さすがに教頭の落ち着いた対応に接して、ジャケットの男のトーンは少し下がった。

 

*                   *              *

 

 15分後、教頭と副校長、この中年の夫婦、そして物理教師の野口幹男(みきお)は、北側校舎3Fにある理科準備室の奥にある古びたソファに対座していた。準備室にはエーテルのような薬品くさい臭いが漂い、ビーカーやフラスコ、試験管の類が隣の黒い実験台の上に並べられている。 

 教頭と副校長に挟まれて幹男は、顔をうなだれたまま、花柄のテーブルマットに視線を落としている。太陽を背にして並んだ夫婦たちの眼光は、目の前に跼(せぐく)まるの幹男を厳しく射貫いていた。

  

 「あれ以来、菜穂はろくに食事もとれずに伏せっている。おまえは人の心を弄(もてあそ)んで良いと思っているのか?」

 

(短気であるがお人好しの父親と、優しく涙もろい母親)という両親像は、幸田菜穂(こうだなほ)から聞いていたが、直接相対するのは初めてである。

 

「デパートのウエディングドレスを見なはって、菜穂は、ほんま嬉しそうやった。あんたのせいで、菜穂は教壇にも立てんようになってしもうた。」小声だったが、母親の声もピリピリと怒りに震えている。

 

 「どうなんだ、野口君? 結婚の約束をしていたというのは本当なのか?」

少し髪が薄くなった教頭は、夫婦の剣幕に押されているが、仲裁するにも自分が事情を知らなければならないと思った。

 

「・・・・・たしかに・・・」

 

「たしかに何だ?」父親は間髪入れず怒鳴った。

 

「たしかに、菜穂さんから見れば、誤解されても仕方ないかも知れません。」

 

 幹男は小柄ながらも精悍な体に、晴れやかな額の整った顔をしている。いつもなら、ぴったりとフィットしたトレーナーを着た背筋は真っ直ぐ伸びている。週三日スポーツジムで鍛えている体は、男盛りの30歳の若さを発散していた。

 

 しかし、今はまるでしょぼくれた老人のように生気のない前屈みの姿勢となって、青いトレーナーが腹部で皺をつくっている。彫りの深い横顔も今は不安な陰影をつくり歪んでいた。

 

 「誤解されてもしゃあない? ふざけはるな!」父親の激昂は明け放れた窓を抜け、対面の校舎に反響しそうだった。

 

「娘からみな聞いてはるぞ! おまえは男のクズや!」

 

「まあまあ、お父さん。野口君の言い分も聞いてから、議論しましょう。」小柄で白髪の副校長は、教頭に輪をかけて優しい言い方で父親を制した。

 

*               *                  *

 

・・・しどろもどろになりながらも語った、幹男の説明の概要は以下の通りであった。

 

・幸田菜穂は年こそ5つ下だが、同じ阪急大学卒で、京都左京区にある幹男が勤める中高一貫校のK女学館という私学に赴任してきた。そこで、同じ学年、同じ進路部に所属したため、自然親しくなった。

  

・親しくなったとは言え、『一線を越えた』わけでは無い。(しかし何度か、くちびるを重ねたことについては、相手の父母を前に言えなかった。)

 

・確かに、食事を一緒にしたり、大阪や神戸でデートを何度かした。

 

・しかし、Y県の公立学校に赴任するとき、これからの遠距離交際は無理だと思い、二人の関係は清算したつもりである。(少なくとも、そのように菜穂に気づいて欲しかった。)

 

・以降、夏休みや冬休みに菜穂の方から「是非会いたい」という連絡は何度ももらったが、それには応えることができなかった。

 

・雀が丘高校で、職場結婚することになったのは、自分が京都から離れて始まった、実習講師の井口季乃(すえの)との交際が実ったためである。従って、菜穂との交際期間とは『重複していない』。

 

・菜穂は確かに「結婚」という言葉は出していたが、それを明確に否定できなかったのは自分の八方美人な性格の弱さが招いたもので、申し訳無い。

 

・どうしても「別れる」という言葉を切り出せなかったので、京都とY県との地理的な隔離をもって、交際の消滅と解釈していたのは、やはり自分の軽率さだった。

 

・結婚が決まったのにこれ以上、菜穂から連絡をもらい続けることは、それこそ彼女を傷つけることになるので、その旨を本人に伝えた。

 

*                *             *

 

 「もう一度聞くが、野口君の方から『必ず結婚する』などということを、こちら様の御子女に言ったことは無いんだね。」教頭は迂闊にも、このように部下を弁護するような発言をした。

 

「あんたら、このような不潔な男を放っておくつもりかいな?出るところへ出ても、こちらはかまへんで。」父の怒りは再燃した。

 えんじ色のスカーフを震わせながら、母親はしきりに京ちりめんのハンカチで涙を拭っている。

 

「まあまあ。そんなに大声を立てないでも、お父様のおっしゃりたいことは十分に分かります。」副校長は、しょうもない奴だなという表情を幹男の横顔にちらりと送りながら、次の話の持っていき方を思案していた。

 

(翌日聞いたことであるが、教頭と副校長は幹男一人を準備室から退出させてから、30分くらい夫婦に対応していたようである。

 

 18時頃には、いずれにしても両親は学校から離れていた。『けじめはきちんとつけてもらう』という父親の捨て台詞を残して、頭を下げ続ける教頭と副校長に、挨拶もせず二人は帰って行ったそうだ。)

 

*                  *              *

 

 勤務地のFY市の郊外にある4階建ての古い安アパートの三階の一室に、幹男は19時頃に帰ってきた。ぼろきれのように心身が疲れていた。

 

(長い一日だった。ほんとに長い一日だった。)

 

 冷蔵庫から冷えた缶ビールを出して一気飲みしながら、この午後をしみじみと振り返っていた。コンビニの袋や空のカップ麺、丸まった下着や、書籍等が無造作に床に散らばっている。その隙間にようやく敷かれている古びた蒲団に、彼は大の字に寝転がった。

 

 (これで、雀が丘高校にも来年は居られないかもな。菜穂の両親が大人しく帰る引き替えに、管理職が自分の来年の人事などの取引をしたかも知れない。季乃とは学校の帰りがけに、彼女の車の横で少し話すことができたが、不安そうな顔をしていた。『もう終わった過去のこと』であると信じてくれれば良いが。しかし、季乃の両親に今日のことが知れたら、最悪破談になるかも?)ビールも2本目となり、ようやく酔いがまわってきた。効き始めたクーラーに身を涼ませながら、幹男の想像は悪い方へ向かった。この頃の習慣となっていた23時の季乃へのおやすみメールはこの日は省いた。

 

*                *               *

 

 幹男は、自分の性格の欠点を十分認識している。改めて言うと八方美人なのである。人の考えに反する言葉が言えずに沈黙していて、結局は相手をもっと傷つけてしまう。そもそも、幸田菜穂をそういう気持ちに追い込んだのも、この性格からだった。K女学館に赴任した菜穂は、新任の一年間で二人の同僚に次々にふられていた。結果として、いずれも元の交際者たちは菜穂をふった後、職場とは関係ない女性と結婚していた。

 

 しかし、それらの非は決して、彼女をふった同僚ばかりに帰すことはできない。数学を担当していた菜穂は痩身、細面で色白の理知的な顔をしていた。大学に入る前はミッション系の中高一貫のお嬢様学校に通っていたとかで、ジーンズなどスポーティな服こそ好んで着ていたが、上品な所作がいつも垣間見られた。ただ、菜穂の性格は、よく言えば天真爛漫、悪く言えば幼稚で融通が利かない。相手の反応にお構いなく、興味あることを一方的に話し続ける傾向もあった。それでも、2度続けてふられた後の落ち込み方はひどく、進路指導室で近く机を並べる幹男は捨てておくわけにもいかなかった。

 

「また、いいこともあるよ。あなたは真っ直ぐな人だからね。」

「おいしい魚を食べさせる店があるから言ってみようよ。」

 

 幹男は大学時代から実は比較的モテたが、その頃は仕事が面白く没頭していて、たまたま男女関係がフリーだったこともある。自分の方が5歳上だったので、菜穂に自然優しくふるまう立ち位置になった。くちびるを重ねたのも、今にしてみれば同情心からであった。しかし、その行為の前に、それを誘(いざな)う仕草が、菜穂の方には確かにあった。

 

 しかし、直情的で思い込みの激しい彼女は次第に大胆になっていった。やがて、幹男から「結婚」という言質(げんち)を取ることはできなかったにせよ、

「こちらからは、別れることはしないよ。」等といった言葉を、彼は言わざるを得ない状況に追い詰められた。

 

「生涯別れない = 結婚」・・・一途な菜穂が、短絡的にそう取っても仕方が無かった。

 

*                   *              *

 

 カトリック系のK女学館に、菜穂と一緒に勤めていた頃を改めて思い出す。幹男は当時から仕事に手を抜かない人間であったが、反面こだわりが強かった。従って、意見を異にする教員と衝突することも稀にあった。

 

(これは私生活にて概して八方美人であることと対称的だった。) 

 

 K女学館は、1960年に学校法人となった。元市会議員の理事長のワンマン経営、一族経営が目立つ学校だった。事実、理事長の息子2人も同校の教員となっている。まだ20歳代の二人は既に教務主任と進路主任を務め、将来の理事長、校長になるのが必定だった。こうした前近代的な空気に、幹男は当然不満だった。

きっかけは小さいことだったが、教務主任である理事長の息子に「不満なら明日にでも他の職場に移られたらどうですか?」と上目遣いで言われてすぐに決心がついた。仕事をしながらの採用試験の勉強も辛かったが、翌年、幹男は甲信越のY県の公立学校の教壇に立っていた。生まれの神奈川県も近く、赴任場所として満足できた。

 

*                  *              *

 

 Y県での初任校である雀が丘高校は新鮮だった。定時制高校ということもあり、色々なタイプの生徒や先生がいた。そこで彼は、何年もできなかった深呼吸をした。雀が丘高校は山岳地方にある。夕暮れに染まった深紅の美しい山並みを見ながら、幹男は菜穂のことを時々思い出す。彼女は、Y県への赴任を聞いて、はじめ泣いて悲しんだ。とは言え、K女学館の封建体質も当然分かっており、長く勤める職場ではないことを理解してくれただろう。

 

 「どうせ結婚したら自分も退職するのだから」とあけすけに彼女が言ったときもある。また、「夏休みは一緒に過ごそうね」と何度も言った。幹男はそんな空虚な言葉に、作り笑顔で答えるしかできなかった。

 

(結局、お別れの言葉は言えなかったなあ。)

 

 実際には幹男は半年間の菜穂との交際が、「絶えず依存される重たさ」を感じるばかりになり、新天地での生活が待ち遠しくなっていた。彼女に対しては、「Y県で落ち着いたら連絡するから」などと心にも無いことを言ってかわしていた。

 

 別れの日、新幹線の窓から後ずさっていく菜穂には、まだ爛漫な笑顔と再会への確信が見られた。自分のシートに身を沈めた彼はしかし、安堵と脱力感を覚えずにはいられなかった。

 

   *                   *               *

 

 新しい環境に慣れるのに夢中で、雀が丘高校であっという間に半年が過ぎた。しっきりない業務が途切れたとき、ふと「自分も、もう30を過ぎた」という感慨が通りすぎるようになった。漠然とではあるが直子とのこともあって「結婚」という2文字が頭をかすめる時が出てくる。

   

 そんな心の隙間を埋めるように現れたのが、実習講師の井口季乃(すえの)だった。2歳年上の彼女は、菜穂と正反対の性格であった。早くから父母を亡くしている季乃は、誰にも頼らない凜(りん)とした姿勢が目立つ。理系の人間によくあるように、だらしなくプリントや実験器具を放置する幹男に対し、嫌み一つ言わず、きびきびした動作で片付けてくれている。

季乃は多忙だった。理科の実習講師以外でも、放送部の指導、厚生部の物品発注や請求書処理など、能率良く仕事をこなしていた。しかも、それらはけっして、誰からをも感謝や賞賛などを必要としない自主的な行為であるのは明らかだった。季乃はそうした敏捷性を具現したように小柄でスリムな、表情豊かな瞳をもつ女性だった。真面目さと対称的に、大抵は白衣の下にコミックめいたTシャツなど、カジュアルな服を着ているのはユニークだった。       

 季乃の忙しさもあって、理科準備室で幹男とあまり一緒では無かったが、時々は話しをするようになり、いつしか揃いのカップでコーヒーをすするようになった。それからの二人の展開は省くが、夏休みが終わる頃には、互いに生涯の随伴者としてふさわしいことを認めるようになっていた。

 

 来たるべき結婚について、校長先生その他に相談したのは9月中旬である。燎原の火が瞬く間に枯れ野に広がるように、二人の仲は生徒も含め全校の公認になった。そして、重たい義務として、菜穂にも「婚約」を連絡したのは前述の通りである。

 

*                  *              *

 

 里山美佐子が緊急の女子食事会を召集したのは、あの京都からの中年夫婦の騒ぎがあってから1週間後のことだった。たまたま生徒休業日に当たり、日頃の慰労も兼ねてとの名目である。職員室入り口の左隣にある会議室には、近所で評判のトンカツ屋の仕出しが、11時半に運び込まれた。強制参加では無かったが、雀が丘高校に所属する12名の女性教員の内、都合がつかない2名を除き10名が出席した。その都合のつかない2名の内の一人は季乃だったのには意味があった。

 

・・・「野口先生のことを皆さんどう思いますか? あのように遠くから人が怒鳴り込んでくる状況を招くこと自体、教員としての資質に欠けると思いませんか?」額の下に奥まった小さな目を怒りで輝かせながら話を続ける。

 

 にわかに会議室の空気が硬直した。そうだったのだ(!)出席者は直ちに里山美佐子の意図を見いだした。『野口幹男の吊し上げ』である。食事会をこの日に設けたのも、婚約者季乃の出張を見計らってのことであった。

 

 誰も反論を加える者も居なかったので、美佐子は主張を続けた。細身から発せられる声であるが、生徒を圧するときと同じような鋭い勢いがあった。

 

 「京都にいた婚約者をだまして捨てたという話です。いやしくも、生徒の前で、『人の生きる道を説こうとする人間』がです。あの先生は、2つ前の職場でも同じようなことをしているそうじゃないですか(これは美佐子の作り話だった)。」

 

 周囲の空気はいよいよ険悪なものとなった。幹男の私的な事情をよく知らない先生たちは好奇心こそくすぐられたが、昼食会らしからぬ美佐子の言動に嫌悪感をもった者も多くいた。

 

*                   *              *

 

 ここで話しは前後する。美佐子は幹男が赴任した、この春から初夏にかけて、2度ほど彼と食事を共をしたことがあった。彼女はシングルの30代中ばならではの美しさをもっていた。しかし、痩身な体躯と低く落ち着いた声に、どことなく冷徹な印象を幹男は感じずにはいられなかった。

 

 1度目の食事は、赴任後すぐに進路副主任になった彼を、昨年の進路副主任の美佐子が招待するという断りづらい場が設定されていた。清水港からの直送の魚を食べさせる店だった。今考えれば幹男の精悍で整った風貌が、彼の意志とは関係なく、美佐子の心を早くも捕らえていたのであろう。それでも幹男は、店の止まり木に並んだ彼女との会話から、新しい職場の雰囲気や人間関係を知ることは新鮮だった。

 

 2度目の誘いは、雀(すずめ)祭という名の学園祭で、彼の担任するクラスが、ステージ発表部門で優勝したことを祝勝するという名目だった。今度はフランス料理のコースを予約する高級な店だった。しかし、このとき、美佐子は彼に万年筆を贈ろうとした。このことは少なからず、幹男を狼狽させ、警戒させた。

 

「いや、クラスのみんなが頑張ったことだし、自分はただ黙って見ていただけだから。」

 

 そう答え、躊躇する幹男の横顔に魅せられながら、美佐子は強引に彼の胸ポケットにそれを差し込ませた。

 

「ありがとうございます。それでは頂きます。」少しの逡巡の後、幹男は精緻な銀色の装飾を持つ万年筆を受け取った。

 

  *              *             *

 

 しかし、一学期の終業式にご苦労様会と称して、3度目の誘いを美佐子から受けたとき、さすがに彼は、多忙を理由に断った。折しも狭い街での目撃談もあって、二人だけの食事のことは何人かの同僚の話題に上るようになっていた。この拒絶以降の幹男のつれない態度に、美佐子には強い失望を覚えた。 

 

 以降、4度目の誘いは無かった。誇り高い美佐子は、著しくプライドを傷つけられた。と同時に、幹男に対する消極的ながらも復讐心が生まれ始めた。

       

 

*                 *              *

 

 ・・・そんな美佐子にとって、この秋の幹男の失態は、彼を社会的に追い落とすための絶好の機会だった。会議室での彼女の主張はますます勢いを増し、弁当を前にした出席者の耳に殷々と響いていた。


「そもそも野口先生は、それに独善的な考え方の持ち主でして、気に入らない生徒には普段点を故意に低くつけるとか、お気に入りの子にサービス点をあげるとか。保護者からも色々『あの先生は』という声が上がっているらしいのよ。それだけでは無いわ。彼のアパートの近所の人から聞いたんだけど、季乃先生を深夜に呼びつけて・・・」

 

 いよいよ美佐子の勝ち誇ったような弁論が凱歌を奏でようとする刹那、安達文子という赤いフレームメガネを掛けた厚生部主任が、決然とした声でその言葉の続きを遮った。

 「里山さん、おだまりなさい。あなたのお話はこの場にふさわしくないわ。昼食会と言っても勤務時間よ。私し事と公け事をいっしょになさらないで下さる! 里山先生が開いてくれた、今日の昼食会を楽しみにしてくれた人も多いのよ。これじゃあ、まるで台無しだわ。とにかく、そんな話しはおしまいにして皆さん弁当を頂きましょう。」

 

・・・文子の肥えた腹部から絞り出されるような声は威厳に満ち、美佐子を直ちに沈黙させ、改めて会議室の空気を一掃した。彼女は今年定年を迎え、この学校の勤続年数も12年になる。いつも穏やかで、華美にならない落ち着いた色のワンピースを地味に着ていた。どの先生とも気さくに身の上話をする人格者だった。しかし、このときの文子は、誰からの反論をも寄せ付けない、力強い迫力に満ちていた。

 

*               *               *

 

 それから、昼食会が終わるまで、ほとんど静けさが続いた。ただ、箸と弁当箱が触れる音、食べ物を咀嚼(そしゃく)する音だけが会議室にかすかに響いていた。

 

 安達文子は、過去をけっして話さない女性だった。従って、「壮絶な」と形容されても仕方ない不幸な過去を、この会議室の中で知る者はいなかった。勿論、長く垂らした白髪交じりの前髪に隠された、元暴夫から受けた古傷をも、誰に気づかれようもなかった。

 

 安達文子は、美佐子も、幹男も、幹男のかつての交際者も、今必要なものは長い「静寂」ではないかと考える。その中で、時間の流れとともに出来事が色あせて客観化し、それぞれの心が自然治癒していくのを待つしか仕方ないと思っていた。

・・・かつての自分がそうであったように。