色彩 飛行 R E N O I R
「 はじめて の ルノワール 」
のご紹介です。
著者は 中川 真貴
( なかがわ まき ) さん
◇ 2 ページから
■ はじめ に
「 わたし は 今日、
何か を 学んだよ 」
78歳 で 天寿 (てんじゅ) を
全 (まっと) うする その日、
お手伝いの ネネットが
摘 (つ) んできた アネモネ を
描 (か) いていた ルノアールは、
最後の 筆 (ふで) を 擱 (お) いて
こう 呟 (つぶや) いた。
川 を 流れるように、
小鳥 が さえずるように、
彼 にとって 絵を 描くことは
「 生きること 」
そのもの だった。
生涯 (しょうがい) に 6000 点
以上 の 作品を 残した
ルノワール は、晩年 リウマチ で
手足 が 不自由 になり
車 椅子 (くるまいす) での 生活 を
余儀 (よぎ) なくされた。
それでも 痛みに 堪(た)えながら、
右手に 絵筆 を 巻きつけて
絵を 描き 続けた。
思わず 触 (ふ) れて みたく
なる ような 豊満 (ほうまん) な
裸体 (らたい) 、微笑(ほほえ)
ましい 少女 像、美しい 色彩 と
軽快 な タッチ で 描かれた
風景画・・・。
ルノワール の 作品 を 前にすると、
自然 に 頬 (ほほ) が 緩 (ゆる) み
優 (やさ) しく 静 (しず) かな
気持ち になる。
「 絵画は 壁(かべ) を 飾 (かざ) る
もの だから、それは 綺麗 ( きれい)
で 明るく 楽しいもの
でない と いけない 」
と言っていたルノワールの
作品は、なぜこれほど
人々を温かくするのだろう。
他の 偉大な 芸術家の
人生が そうであったように、
ルノワール の 生涯には
社会的にも 経済的にも
恵 (めぐ) まれず、苦悩 (くのう)
と 葛藤 (かっとう) に
苛 (さいな) まれた 時期があった。
しかし 人生の 後半 は
比較的 に 恵 (めぐ) まれていた。
生涯の 友や 良き パトロンと
出会い、心 安らぐ 家庭 を
持った ことで、持ち前の
社交性 や 穏 (おだ) やかな
性格 と 勤勉さ が より 一層
(いっそう) 発揮 (はっき) され、
彼の 画家 生活 を 豊 (ゆた) か
な ものに して いった。
絵付け 職人として 仕事を 始めた
ルノワール だか、その 習慣 と
気質 が 生涯 抜けるとこは なく、
毎日 決った 時間に 仕事を 始め、
すべての 道具 を きちんと
整理 (せいり) していた。
数々 の 名作の 中の モデルは、
彼が 大切にしていた 友人 だった。
子どもたち を 描くときも、
モデル が 緊張 (きんちょう) し
ポーズ をとることを
嫌 (いや) がらないように
優 (やさ) しく 話しかける
のが 常 (つね) だった。
印象派を 最初 から 擁護 (ようご)
した 画商 デュラン=リュエル
が 苦境 (くきょう) に 陥 (おちい)
ったとき、親身 (しんみ) になって
寄 (よ) り 添 (そ) った のも
ルノワール だけで あった。
画家 としての 評価 は 言うに
及(およ)ばず、人間的 にも
崇高 (すうこう) な 精神の
持ち主 で あり、魅力
(みりょく) 溢 (あふ) れる
人物 だった ルノワール。
彼 の 人間性 を 知り、
生きた 時代 を 知ることで、
きっと あなた は 作品の 中に
生き 続ける 純粋 な 画家 の
魂に 触れることができるだろう。
中川 真貴 (なかがわ まき)
アート キュレーター
* キュレーターとは、
博物館 や 美術館 などで
資料 収集、保管、展示、
調査 研究 などに 携 (たずさ)
わる 専門 職員のこと、また
一般 に 管理責任者を指します。
* ピエール=オーギュスト・
ルノワール
(Pierre - Auguste Renoir 、
1841年2月25日 - 1919年12月3日)
は、フランス の 印象派 の 画家。
後期 から 作風 に 変化 が 現れ
始めたため、ポスト印象派の
画家の 一人 として 挙げられる
こともある。
出典:Wikipedia : ウィキペディア
〈 後 略 〉
□ 参考 文献
色彩 飛行 RENOIR
「 はじめて の ルノワール 」
中川 真貴 (なかがわ まき) 著
求 龍 堂 発行
https://bijutsufan.com/impress