super LION (9)
振り返らずに大股で歩く深夜の動物園。湿った薄ら寒い空気がオレに纏わりつく。オレの背中はバッシュが檻に体当たりする姿を見つめる。オレの背中は檻とライオンがぶつかる音を拾う。振り向いてはいけない。振り向いてはいけない。ライオンと暮らす方法や、ライオンを盗み出す方法を考えて、これがバッシュとのやっと出逢えたバッシュとの最後の別れではない事を、自分に必死で言い聞かせながらオレはライオンの檻から猛スピードで離れた。泣いてもいけない。涙を零してなんて絶対いけない。振り仰ぐと、やけに大きな月が空に浮かぶ。そうか、今夜はスーパームーンの夜。だから…だからなんだってんだ。ああ、もう振り返ってバッシュの元に走って戻ろうかと思い、踏み出した片足を止めそうになった瞬間、耳障りなサイレン音が園に鳴り響いた。何が起こったんだろう。本気でわからなかったけど、ちょっと考えて自分の事だと気づいた。バッシュから離れる事で頭が一杯で、オレは何も考えず堂々と敷地を歩いていたんだった。やばい。周囲を見回せば思ったよりも近くにライトの光が幾つも現れ、かなりのスピードでこちらに向かってくる。ほんと、やばい。ここで捕まり前科者にでもなったら、バッシュに逢えなくなってしまう。オレはライトに背を向けて、どこに向かっているのかよくわからないが取りあえず全速力で走り出した。常夜灯を避け、整備された通路を避け、なるべく木々の陰を選び、闇雲に走った先は…急に拓けて…苦しい息の中見渡せばライオン舎の上にかかるあの橋の上だった。なんの事はない、身を切る想いで去ったバッシュの真上に出て来たわけだ。左右から、ライトがちらちら迫ってくる。こっちだ、あっちだ、止まりなさいの声が聞こえる。ライトを持つ警備員のシルエットがはっきり見え始める。どうする?どうなる。咄嗟に橋の手すりから下を覗き込めば、もうバッシュがオレの下にいる。敷地内の小高い岩に軽々と飛び乗ったバッシュがオレを見上げている。眼が合う。頷く。バッシュは深く息を吸い一声短く、だが大きく吼えた。その瞬間、オレは手すりをひらりと越えてバッシュめがけて飛び降りた。昼間に飛び降りた時と同じように周囲が急に静かになって、ゆっくりゆっくりとオレはバッシュに近づいていく。はっきりとバッシュが笑っているのが見える。スーパームーンを背に、バッシュが手を差し伸べてオレを待ち構えているのが見える。ライオンが手を差し伸べるなんて、まるで漫画の様だけどそんなんじゃない。鬣を夜風に靡かせ堂々と立っているバッシュは本当にカッコよかった。やっぱり離れられなかったな、なんて考えながらオレはバッシュの腕に飛び込む。落下による衝撃は、まったくない。離れようと馬鹿な事をして、ごめん。バッシュの胸に膝にしがみついて眼を瞑る。これからはここで一緒に暮らそう、バッシュの声が聞こえる。顎をくいっと持ち上げられて、鼻先に暖かなバッシュの息がかかる。急いでいる訳ではない、むしろ時間はたっぷりある。バッシュはコンビニに立ち寄り、サンドイッチと飲み物と…砂糖衣がかかった菓子パンを購入し、近所の公園に寄る事にした。木のベンチは少し湿っていたが、さほど金をかけた服を着ている訳でないあまり気にならない。がさがさとレジ袋の音を公園に鳴り響かせる。今日はいないのか、とすこしがっかりする。住まいの近くのこの公園は、日当たりもよく清潔なのに、たいてい誰もいない。時折ここで過ごすうちに、最近茶色い野良猫を見かけるようになった。パンを差し出すと警戒もせずに一口食べて、眼を丸くしてこちらを見上げてくる姿が可愛らしく、なんとなく、バルフレアと名付けてみた。野良猫は、何回か出逢う内にバッシュの姿を見つけるとトコトコ走り寄ってくるまで慣れた。レジ袋の音を聞き逃す奴ではないし。サンドイッチを食べながら、バッシュはがっかりしている自分に苦笑する。休日の今日はこれからフラワーアレンジメントの展覧会に出かける予定だ。職場の同僚かつ友人以上、彼女未満…いや彼女になってしまう、のか?とにかくその女性が通う教室が、繁華街のギャラリーで作品展を開くという。観に来て欲しいとねだられて、用事もないので引き受けた。花束でも持って行こうと思っている。フラワーアレンジメントの展覧会に花束を抱えて参上する危険性をバッシュはわかっていない。気が重い訳ではない、が、出かける前にバルフレアと逢っておこう。茶色の毛並みを一撫ぜして、行って来いよと送り出して欲しかった。サンドイッチは食べ終わってしまった、缶コーヒーも飲み終わってしまった。バルフレアが好きな白い砂糖のパンも半分食べてしまった。バッシュは時計を見て、公園を見渡し、スマホで会場を確認しゴミをまとめ、もう一度時計を見て、本人は気づかぬまま溜息をつき、ベンチに背を預け大きく伸びをし、最後に未練がましくもう一度左右を見て、小さく呼んでみた。バルフレア、と。その途端、どこからか茶色い塊が飛び出てきて躊躇わずバッシュの膝に腕によじ登り、あっと言う間にバッシュの胸に縋りつき、見上げて小さくにゃ、と鳴いた。鳴いてから、寝ぼけ眼できょろきょろと辺りを見回し、もう一度バッシュを見上げまた鳴いた。バルフレア、どこに隠れていた?いたのなら、すぐ来てくれなくては困るだろう。バッシュの目じりが下がる。パンはいるか?キミが遅いからハムやチキンはもうない。砂糖衣のパンに早速目をつけ、かぶりつく猫の背中は小さく、肩も薄い。残っていたパンをあっと言う間に平らげると、バルフレアは当然の様にバッシュの膝に座り込み前足で器用に口の周りや耳を繕い始めた。そろそろ駅に向かう時間だと、時計を見なくてもわかる。普段なら食べ終わればさっさと離れていくバルフレアが、バッシュの膝の上で丸くなる。今日はご機嫌がよろしいようで。耳と耳の間を撫でてやる。バッシュを見上げてくる瞳は、澄んだ翠。よし、行くか。バッシュはバルフレアを驚かさぬよう胸に抱え直し、そっと立ち上がった。駅にではない。自分の住まいに。これも運命だろう。こんなに懐いた小さな生き物を、置いて離れられはしない。展覧会は…正直全く興味がない。彼女には、メールで詫びを入れておこう。数日…へたをすれば数か月、職場で気まずい思いをすればそれで済む。今はただ、この猫と、バルフレアと離れたくない。猫より犬派だと思っていたが。わからんものだ、と一人口元を綻ばせながらバッシュはバルフレアを抱えて家に戻る。バルフレアは躊躇いもなくすたすたと部屋の奥に入り込み、ちゃっかりベッドの真ん中に座り込んだ。最初からここにいた、とでもいうように。横に寝ころび、顎を掬って呼びかける。これからはここで一緒に暮らそう。鼻先に、キスをしたら引っかかれるだろうか…。