いつか終わるその時まで |  お転婆山姥今日もゆく

 お転婆山姥今日もゆく

 人間未満の山姥です。
 早く人間になりたい。

我が家には夫が愛してやまない楢の木が2本ある。

どちらも夫が植えたものだが、こちらは苗から、

 

      

 
 
こちらは種から育てたものだ。
 
      
 
 
一昨日少し枝を落としたが、光の通り方が爽やかになった。
落とした枝葉に虫は付いていなくて、夫曰く
「見事な木だ」
 
太い部分は適当な長さに切り揃えた。
大したことがないようでも、火持ちも火力も素晴らしいのが楢だから、小枝でも焚き付け以上のものになる。
 
これはそのうち薪が手に入らなくなったり、今の暮らしが無理となったときに最後の薪とするために育てている。
 
昨年私が体調を崩す直前、娘から
「いつまでこういう暮らしを続けるの?」
と、聞かれたことがあった。
その事を考えるのを避けていたのは、私だと思う。
娘は、若いと思っていた母親に何か変化を、老いを感じたのだろうと思う。
 
その後のことは限定記事にしたが、幸いなことに私は元気を取り戻した。
しかしこの春の薪割りで右肩を酷く痛めたようで、娘に遠回しに気付かされるまでもなく、体の変化を自覚せざるを得ないのは事実である。
とはいえ、まだまだだと自信は戻ったし、変化を感じつつも日々相変わらず、細かい工夫で暮らしは何とか維持できているのは、本当にありがたいと痛感している。
 
しかし必ず終わりは来る。日々がどれほど大切で愛しくても、来る。
 
昨日、夕飯の支度をしながら、リビングで事務仕事をしている夫の姿にしばらく見入ってしまった。彼は私の視線に気付くことなく、仕事に没頭している。
 
台所には夕方少しの間、西陽が入るので、リビングの方が暗い。
そこにいる夫は、白髪こそ出ては来て、事務仕事では老眼鏡までかけるようになったが体躯は若々しく、この人との時間の積み重ねと、楢の太さに圧倒される思いだった。
 
今後何度でも思い出すひとこまだと、何故か知らぬが強く感じた。
 
降り注ぐ陽射しは強く、他所では沢山の園芸種を植えていて花も次々賑やかだが、この時期の我が家では花はとても少ない。
 
そんな中、増えるばかりでせっせと駆逐したドクダミや、ムラサキツユクサが、一叢になってちゃっかり寄り咲いていた。