8時前に食事が届き、その時に看護師さんに言われた。
「M先生、さっきいましたよね?」
「はい」
「どうして今日いるんだろうと思ったんですが、Oさんに会いに来たんですね」
なんと・・・
「手術前から、何度も何度も来てくださって。今まで病気やケガで、いろいろな先生に診ていただき、皆さんとてもいい方ばかりでしたが、M先生は本当に温かい気持ちが全体に出ている方ですよね」
と言うと
「私もそう思います」
と頷いていた。
朝食は、お粥でなく普通に炊いたご飯になっていた。
大根と人参の煮物、絹ごし豆腐、鮭のフレークが付いている。フレークの塩っけが懐かしく(それでも薄味なのだが)、ご飯のお供として実に美味しいと思った。汁を少しと、ヨーグルトは残したが、他は全部食べた。
下膳して、しばらくすると、熱いタオルがまた供された。そのあとはお掃除である。
話好きの方が二人、それぞれ担当があるようで、ベッドにふんぞり返ってるのも申し訳なく、少し話をしながらも身を縮めていた。
10時前に
「おはようございます」
と療法士さんが来た。
「おはようございます。あ、すみません、10時から栄養指導だそうで・・・」
「ああそうでしたそうでした、では終わる頃にまた」
と張り切って出て行った。
時間通りに
「栄養士の〇〇です」
と管理栄養士さんが入ってきた。年のころは30代後半だろうか。若々しくてスタイルも良いのは栄養管理が行き届いているからだろうなと想像する。
「普段のお食事はどなたが作ってらっしゃいますか?」
など聞かれる。
「私です」
「私などよりもベテランでいらっしゃいますから、お分かりかとは思いますが、一応説明させてください」
と注意すべき食材、積極的に用いるべき食材の一覧を渡してよこす。
「うーん・・・確かに、ずっと子供たちや夫中心で長年ガッツリしたものばかり作ってきましたが、ことごとくアウトですね」
「徐々に食べられるようになるそうですが、最初の数ヶ月はこれを参考に慣らしてください」
「わかりました。病院の食事がとても参考になったので、それを真似て何とか出来そうです」
「何か質問や、聞きたいことはありますか?」
ここで話がずれるのが私の悪い癖である。
「雪が酷いですが、この時期は通勤も大変でしょう」
「一気に降りましたから、途中渋滞があるので早めに出るしかないです」
聞けば市内ではなく、別の市から通っているそうだ。近いようだが通うとなると30分以上かかる。
「でも誰も遅刻する人はいません」
「そうでしょうね。M先生は関西出身だそうですが、こういう雪の日は電車も止まるので通勤できないと仰ってました」
「雪が降らないところってそうなんでしょうね。調理の人たちはもっと早い時間に来ますし」
「暗い時間から頭が下がります」
「そうそう、この間いただいたメモ、みんなで拝見してとても喜んでいましたよ」
「え、名前のプレートに走り書きしただけですが」
「病院食はなかなか受け入れられない方が多いので、たった一言でもとても嬉しいものです。良かったらまた書いていただけませんか?」
「では、お昼に改めてお礼を書きます」
「何よりの励みになります、ぜひお願いします」
「今朝は書きませんでしたが、鮭のフレークがとてもありがたかったです」
「それも間違いなく伝えます!」
栄養指導も終わった。
まもなく、例のカレが来た。
「では最後のリハビリ頑張りましょう!」
「きっ・・・今日は何を?」
「歩行訓練です」
私は連れ出され、階段を2階まで下りた。
2階からエレベーターに乗り5階まで戻り、また階段を下りる。
「ゆっくりでいいですよ」
と言われるが、いくら歩けると言っても、まだ恐々なのである。
実際降りるときの方が怖いのだ。
2巡目は元の感覚が戻っていた。そして思い出した。
「私・・・震災のすぐあと、この階段を何回昇り降りしたか・・・」
と話す。
「入院されてたんですか?」
「伯父が震災の晩に倒れて、あの時は自家発電で検査もほとんどできなくて、ICUに移されて16日に亡くなったんです」
「そうだったんですか」
この話は、夜勤の看護師さんともした。
その方は当時も勤務していたそうで、
「あの時は、流された人たちが次々運ばれてきたんです」
「流されたって、流された遺体が運ばれたのではなくて、助かった人たちが・・・ですか?」
「そうなんです」
「あの冷たい津波に流されて、助けられて、ここまで来るのにどれだけ時間がかかったか・・・」
「でもね、その時ここに運ばれた方で、亡くなった方はゼロだったんですよ」
「(絶句)」
「ものすごく忙しくて大変だったんですけど、亡くなる人が出なくて本当に嬉しかったです」
その時命拾いした人も、地元に帰れば家や家族が・・・と、考えるほどに胸が痛くなるのだった。
それでも、それぞれの場所で、自分が被災者であっても奮闘した人たちがいる。
あの時、この階段ですれ違ったスタッフの人たち。
点滴の袋や注射器、医療器具など持っていて手ぶらの人は一人もいなかったな。
そんなことを思い出した。時が流れても何かがどこかでつながる。生きていればこそでもある。
部屋に戻り
「M先生が、今日は県立だと仰っていたのに今朝も来てくださったんですよ」
「そうでしたか。M先生らしいですね」
「M先生のような人は、今まで会ったことがないです」
そう言うと
「そーうなんですよ!!!」
と頭を振り振り
「私・・・男ですけど、M先生は好きです!!!」
「一緒に働いていてもそう思うんですか?」
「私の方が年長ですが、M先生は優しいだけでなくて、気配りが・・・」
「やっぱりそうですか」
実は私のことは
「Oさんは、リハビリは必要ないはずなのですが・・・」
と前置きして、
「M先生は外科なので、手術が終わればそれで終わりで、後は内科などに引き継がれリハビリが必要な人には、そこからプロクラムを組むんですが、M先生は患者さんの気持ちの様子なども含めて、私に言ってくださるんです」
なるほど、たしかにこの人のやる気と快活さと話好きは、それだけで気が紛れる。
「私たちや看護師さんにも、本当に優しく穏やかに接してくださるんですよ。M先生が上からものを言うのは一度も聞いたことがありません。ああいう先生は、今まで経験がありません」
遡って思い出した。
11月に痛みに耐えかね、かかりつけ医に行き、待たされ、県立に回され、さらにここに・・・。
「お待たせしました」
と駆けてきたM先生と初めて対峙して
「あ、この先生・・・」
と心が解れたことを。
やっと治療を受けられる、という目的以前の、人として感じたことである。
「本当に好きです、M先生。人としてまず尊敬できます」
療法士さんは、またアツク私に語ったが、
「先生にも、看護師さんににも療法士さんにも、こちらではただただ良くしていただきました」
「そうですか、嬉しいです、励みになります。ありがとうございます。お大事にしてください!」
「ありがとうございました」
ほとんどスキップして、部屋を出て行った。
昼食が来た。
この病院での最後の食事である。
白飯、赤魚の煮つけ、白菜とニンジンの和え物、蕪の含め煮、バナナ1/2、お茶
美味しく食べられ、お礼も書いた。
裏にも書いた。
いちいち、感謝しかないのだった。