義父の急逝・おとうさん |  お転婆山姥今日もゆく

 お転婆山姥今日もゆく

 人間未満の山姥です。
 早く人間になりたい。

 義父は持病がなく、自宅で亡くなったため「変死」扱いとなった。

 

近所の人やお寺の僧侶が、夫と夫の兄が駆けつけるまで様々世話をしてくれたようだった。

 

私は自分の母が、心臓発作で自宅で急逝した時のことを思い出した。

3日前まで、冬休みだった私の子供たちと過ごしていた母。子供たちは一週間ほど大好きな祖母のもとで過ごしていたが、もうすぐ3学期が始まるから迎えに行った。

母は元気で

「また春休みおいでな」

とにこやかだった。

ただその時私は、なんだかうすら寒いというか、漠然とした不安を感じた。

それは拭いきれないものであった。

 

「この後疲れが出なければいいが」

 

よほど

「寂しいだろうから、一緒に乗っていく?」

と言おうかと思ったが、私も仕事があるし、元夫への遠慮もある。

 

そうして別れたのが最後だった。

 

3日後の夜、思いがけない知らせを受け駆けつけると、実家の庭にパトカーが停まっていて、赤色灯も点いていた。

母は病院に運ばれ検視を受けているという。

私は、警察官に様々な事情を聴かれたのだった。

 

 

義父の急逝で、夫や義兄も同じような事になっているだろう。

 

「事件性はないが、検死には時間がかかる」

 

コロナが第7波で、感染者が増えていたことも一因のようだった。

早くても5日くらいかかるという。

 

まず何をしたらいいのかさえわからない、50を過ぎたばかりの男ふたり。

 

「遺影に使う写真を用意して」

と伝えた。

 

遺体が戻ってくるまでの間、兄弟で、役所関係その他への届け出、手続き、そして、それはそれは広い「旧家」の片づけをして過ごしたそうだ。

 

夫は兄と会うのは15年ぶりだという。義兄は大学進学で夫よりも先に家を出て、関東圏で結婚し、家も建てた人である。

離婚し、家も故郷も棄てた弟に兄はどう接しただろうか。

 

「兄も年取るんだね。驚いたよ」

 

兄弟でわからないなりに協力し、家の片付けに汗を流し、共に食事をし、夜は育った実家で枕を並べて話は連日深夜まで尽きなかったそうだ。

 

15年前は2人とも若く、弟の離婚騒ぎの時もその後も

「兄からは綺麗ごとばかりで、何の助けもなかった」

 

言葉を尽くして理解を求める弟でもなかったのだが、義兄夫婦は子を連れ出て行った元嫁とその後も繋がっていたのも、夫が頑なになる一因ではあった。

義兄が義父と、どの程度行き来があったのかも知らない。

 

「兄と俺とは性格が違うと思ってたけど、血は争えないね、考え方なんかそっくりで、兄も俺も大いに盛り上がってさ」

と嬉しそうだった。義兄とて同じだったと思う。

 

 

検死が終わり、やっと葬儀の準備に入ると連絡が来た。

 

「お世話になったお寺さんと、近所と、アニキと・・・」

 

ここらの名産品を案配して、送ってほしいというのでいくつか購入し、ついでに葬儀会館で必要と思われるものや、夫の会社などからの香典も詰めて送った。

娘たちは必ず来ると思い、彼女らには若い人向きのを案配し、わかるように付箋を貼った。

 

その後

「届いた、ありがとう」

と連絡が来、さらに動画が送られてきて、それは葬儀の準備が整った会場入り口からのものだった。

男2人で、ここまでちゃんと手配したのかとホッとした。

コロナで家族葬としたが、一般会葬者用は手前に小さな焼香台が設けられていて、小さな写真立が置いてあった。

カメラがそれを映し出す。

私はその時初めて義父の顔を知ったのだった。

 

目元が夫にそっくりだ、と笑った。

 

夫の歩がゆっくり進んでいる。

 

手配した供花も綺麗に飾られていて、祭壇も周囲も、派手でも貧相でもなく、慎ましくも落ち着いてとても明るく温かい雰囲気になっていた。

 

夫が線香に火を点け、立て、鈴を鳴らした。私も画面越しに合掌した。

 

 

夫の故郷では火葬が先だという。

夫は、私から父に送った手紙の束を持ち帰ると言ったが

「それは私からお義父さんへ送った、あくまでパーソナルなもの。皆さんが了解してくれるなら、一緒に棺に納めてください」

 

で、そうしてもらった。

 

日程もゆっくりで、葬儀会館に集まった親族、それは、夫、義兄夫婦と子供たち、夫の娘たちだけで、宿泊しながら気がねの無い時間を過ごせたという。

 

夫が連絡を寄こしては、状況などをポツポツ話してくれるのだが、夫が身内に初めて語る様々な事、誤解されていた件、お金の事、元嫁の嘘の事・・・。

 

皆が黙って、あるいは泣きながら聞き、長女は

「おとうさん、おとうさんは何も、なーんにも悪くない、悪くないよ」

とずっと背中を撫でてくれたそうだ。

 

その娘たちは、当時からそのままワープしたかのように、その間の嘆きや怒り、寂しさ、辛さ、悔しさ、切なさも全部胸にしまって、

「おとうさん」

と何度も抱き着いて来たそうだ。

 

次女に、15年ぶりに再会した夫。ふたりしてどれだけ泣いたことか。

「泣いた、泣いた~」

どこか恥ずかしそうに、言ってくるのだった。

 

娘たちと収まった写真が次々送られてくる。

若々しいお父さんと、二十歳を過ぎた美人の娘たち。

嬉しくたまらないといった夫の顔。

 

「お父さんの鼻の下、伸びに伸びてるね」

と笑った。

 

    

 

義父の死が、絡まり千切れたままの糸を手繰り寄せ、少しずつ解いたのは間違いがなかった。

 

「良かったねぇ、娘と言えども若い子を抱きしめられるなんて。

私なんて父親にそんなこと・・・冗談じゃないわ」

 

本当に身震いした(笑)。