なんかこれまでと違うと感じたのは、不覚にもごく最近のことである。
寝る前の習慣は、幼少期よりずっと読書であった。
好きな本は繰り返し何度でも読む。
諳んじるほど読む。
その時の内容により、人格にまで影響される。
史実に忠実な歴史ものなど読めば
「某(それがし)」
「今は未の刻」
「二丁先」
「一寸五分」
「五尺三寸」
「六貫目」
なんてことになる。
しかし最近はどうだ。
「こんな時間にお腹が空く」
「食べたい・・・が、我慢しよう」
「これはぼったくりではないのか」
スマホに換えてから、夫は枕元で
「睡眠用ナンタラ」
の音楽やトーク、最近はナイツやサンドウィッチマンの漫才を静かに流している。
時間が来れば止まるのだが、彼は5分と経たないうちに寝息を立てるのだ。
よく眠れるようだ。
それは良いのだが、私も充電しておこうと枕元に充電コードを引っ張り挿した。
寝る前にチェックをと思い、ニュースなど見る。
動画サイトも見る。
たまたまお勧めに表示された動画が気になり、見入る。
私が好きなのは、物の製造工程である。
「ほー、コレはこうして作るのか」
そこまではいい。
このところ
「美味しいクレープ」
「クレープ・神業」
なんてのがお勧めに出てくる。
見る。
ごくゆるく溶いたタネを丸く広げ、あっという間に焼き上げ、クリームやらフルーツをのせて巻き、あっという間に出来上がる。
「見事だ」
しかしながら時々映り込むメニューと値段表。
「コレでこの値段はぼったくりではないか」
と思ったりする。
「いやいや、技術料と思えば大したものだ、ここまで見事にできるまでの精進を思えば・・・」
などと考え直す。
そして、
「なんだかお腹が空いた・・・」
になる。
まさか起き出して何か食べるなんてことは(寒いので)しないが、目の毒である。
気が付くと読書の習慣はすっかりなくなり、夜な夜なその手の(食べ物)動画を見ている。
なるほど・・・こうすればうまく焼ける・・・むむ、そう来たか・・・しかしこの手さばき、見事だ・・・いやいや、上手だけど、ここ、ここは拭いたほうが良いのではないか???
不毛である。
反省した。
読書に戻ることにした。このところコレを繰り返し読んでいる。
強力の人の仕事というのは、本当に息がつまりそうである。
50貫= (187.5 kg) もの巨石を背負って白馬岳山頂に担ぎ上げた、小宮山正氏をモデルにした短編。
満足な装備がない時代の事。
そもそも人が150キロ以上の物を背負えることが信じられない。
それを生業とした人たちは、プライドも胆力もあったとは思う。
しかし、腹に力を入れすぎ(そうならざるを得ない)肛門から腸が出てしまい絶命するなんて、そんなひどい死に方ってあるだろうか。
この時は、某新聞社が、山頂に方位盤を置くのに依頼したそうだが、依頼する方の
「自分はしないで、誰かにやらせる。やらせるために金をちらつかせる」
思いついた奴の顔が見たいし、私は憎しみすら覚えた。
担ぎ上げる強力の周りには、取材の輩がたむろしているのだ。
好奇の目である。
見世物ではないのに。
そして誰も手を貸さない。
歯を食いしばって腹に力を入れて担ぎ上げる。
平坦な道ではない荒れた登山道だぞ。
担ぎ歩くのを、平気で見ていられる神経を憎む。
私は依頼した新聞社の新聞など取るものかと固く心に誓った。
「それが仕事だろう」
「嫌なら引き受けるな」
そういうことを平気で言う、
「役立たずの輩」
を私は心から憎む。
イライラの読書になってしまった。
その他、山犬の話、噛まれて狂犬病を発症して狂死する人の話。
(私が理由もなく犬が苦手なのは、前世において犬に食われたか襲われたかしたからかもしれないと想像してみる。)
富士山頂に観測所を設けるために、憑りつかれたように登山を繰り返す人の話。
絶海の孤島で気象観測を続ける人たちの人間模様。
私は
「人が人にやらせる狂気」
「何かに憑りつかれた狂気」
に戦慄するばかりであった。
限界を超える・・・とはいえ、命あってこそではないか。
折しも、私の主治医の訃報が届いた。
私はその先生の見事な執刀で、癌が出来た臓器本体と、何か所かのリンパ節に転移したものも上手く郭清していただき、左腕の浮腫には時々悩まされていても今も何とか元気に生かされている。
あの穏やかで気さくだった先生が、亡くなるなんて。
重い病を抱えながら診療を続けていて、いよいよとなり、積極的治療に臨んだが急逝されたそうだ。
驚きと悲しみで絶句している。
強力も医者も同じ人間。一つしか命を持たない、人間。
命をかけて、命を鼓舞する、助ける。
それとて生きているからこそ・・・今更・・・。
まとまりのない記事になったことをお詫びします。