6年前にインフルに罹った際は、41.5度まで熱が上がった。
42度まで上がると死ぬと聞いているが、この先どうなるだろう。
あと0.5度である。ぜひ見届けたい、が、この時はこれが上限で、そのあとタミフルであっという間に鎮静化してしまった。
幼少時はひ弱な子で、当時私を育ててくれていた伯父伯母の苦労はさぞやと、今更ながらありがたくなる。
扁桃腺が弱くて、しょっちゅう熱を出した。
そのたびに元看護師の伯母は、近くの元勤務先の医院に連れて行ってくれた。
時にはおんぶをして連れて行ってくれ、あるいは医者が往診してくれた。
サザエさんの漫画で読んだように、黒い診療カバンを下げた先生が入ってくる。
先生にしても勝手知ったる伯母の家(開院当時はここの一角を借りていた)である。
私は茶の間に敷かれた布団で神妙な顔を熱で赤くして寝ていた。
先生と伯母はツーカーで、何と言っても先生は伯父伯母の親の代から懇意であり、更には仲人まで務めた人である。
私はいつものように聴診器で胸の音を聞かれ、喉を見られ、腹部の触診もされ、そののち注射をされ、飲み薬を置かれて終了であった。
当時は抗生剤はペニシリンが主で、飲み薬ではなく注射一本だった。
あとは布団の傍らに置かれた、お湯の入った洗面器で丁寧に手を洗い、
「どれ、先生、お茶っこ飲んでって」
と大人の時間になる。
これほどの安心できる環境はそうそうあるものではなかった。
私は大人たちの世間話を聞きながら、いつの間にか眠っていた。
数日入浴ができないと、伯母がたらいにお湯を汲んできて、タオルを絞っては清拭してくれた。
まだ熱はあっても、こざっぱりし、着替えも済ませると子供心にホッとしたものだ。
実の親の元に戻ったのは小1に上がる時だったが、病弱の母はそこまで気の回る人ではなく、熱を出してもおかゆを作ってくれる程度で、いよいよ熱が酷くなるとオロオロして伯母に助けを求め、私は数日伯母の家に厄介になる。
私は伯父伯母が大好きだったので、子供心に熱が出ることが、嬉しくてたまらないのだった。
あれから幾星霜。
人の親になると、子供が熱を出した時は全て伯母に倣った看病をした。
「ばい菌やっつけよう」
と励ますと、子供たちは熱にうるんだ目で頷くのが健気であった。
おんぶして通院したりも頻回あった時期がある。
そのたびに大きく重くなっていく子供たちが、切なくも愛しいのであった。
手がかかったのは小学校までで、あとは丈夫になった。
つらつらとそういった思い出が頭を巡る。その時私の熱は38.6度まで上がっていた。
そんな熱に侵された頭にハタ、とまた思い出したことがある。
過去にも何度か書いているが、あの時のつらさは未だ覚えている。
あれは自分がインフルに罹ったときである。
娘は中学生、息子は高校生だった。
2人とも弁当持ちで、その日は朝から私は体調が悪く、
「間違いなくインフルだ、今日は申し訳ないが欠勤だ」
と思いながら、子供たちの分の弁当を作り、朝ごはんを食べさせ送り出すまではした。
あとは寝ていようと思ってふと見ると、娘が弁当を忘れて行った。
「弁当無しでは・・・」
と心を奮い立たせ、体は悪寒に苛まれながら、中学の事務室に届けた。
なのに、帰宅した娘からは
「わざわざ届けなくてもよかったのに・・・。こういう時はみんな分けてくれるんだよ」
「そんなの当てにするなんてダメです」
すると息子が口をはさみ
「そうそう、前忘れた時、卵焼きだけで五種類揃っていつもより豪華弁当に・・・」
息子は忘れたのではない。
奴は空になった弁当箱を忘れてくるのが常で、何回どやしつけても繰り返す。
ある日、弁当箱を3つ出して来た。
私は別のに詰めていたのだが、アホな息子は自分が忘れて持ってきたうちから一つを持って行ったのである。
断じて私は悪くない。
ああ、私も頑張って来たなぁ、とつくづく思う。
ドテラのようなベンチコートを着込んで、ただ子供らに食べさせるために悪寒のする中スーパーに買い出しに行ったり、次々ともたらされる
「自分以外のこと」
に対処したものだ。
健気なるかな!!
しかしそれは、伯父伯母、特にも伯母の過保護ともいえるほどの私への献身子育てがあったらばこそであると、改めてわかる。
そんなことが次々浮かぶ。
熱のせいかなかなか寝付けない。
こういう時は部厚い本を読むに限る。
私はせっかくなので
「エクソシスト」
を読み始め、なんだかんだと推敲しながら、二度も読み通していた。